★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

他の善も要にあらず

2022-07-31 23:37:54 | 思想


「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々。

日蓮をよんだあとでは、「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず」といった言い方がなにか微温的にすらうつるわけであるが、「念仏にまさるべき善な」しなんていうのは、ほんとCMみたいで親しみが沸くことは沸くのだ。

日蓮は、自らの上行菩薩たるゆえんを旃陀羅ノ子の重みをかけて放ったが、放たれた側は戸惑う。自分がそこから疎外されてしまうからである。しかし親鸞は念仏が唯一の善だと抽象的に言ってくれるので我々はそれを道具として使えるような気がするのである。日蓮の自分の存在を賭けた挑発は、多くの人々によってじりじりと引き継がれていった。しかし彼らは孤立をやめず、孤立をやめたら存在意義をなくしてしまうことも知っている。本当はキリスト教だって同じだったはずだと私は思うが、イエスは自らを多くの人よりも不幸に、というよりも多くの人々によって殺される境遇を選んで彼らに信じなかったこと、裏切ったことの罪を与えた。これがニーチェ的に言うと欺瞞的なやり方なのであろう。日蓮はいわば最後まで多くのものへの攻撃的な敵対者として一生を終えた。それが国柱会や他の分派の行く末を決めているようだ。

すなわち真理あるいは仏法、出世間の法は「信心為本」である。往生のためには他の善は要なく、念仏で足りるとすれば、すべての念仏者は、僧俗を分たず、貴賤貧富を論ぜず、平等でなければならぬ。末法時における無戒は諸善万行を廃してただ念仏のみが真実であるということの徴表である。無戒ということは諸善万行の力を奪うものであり、そして積極的には念仏一行の絶対性、念仏の同一性、平等性を現わすものである。念仏はあらゆる人において同一であり平等である。

――三木清「親鸞」


三木はつい「平等」と言ってしまうけれども、我々は平等でなくても、全員に当てはまるに過ぎないというのが上の親鸞の言い方ではないかとおもう。インターネットを与えられれば平等だと思ってしまう人間は多いわけであるが、ネットは全員に使えるものに過ぎなかった。


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