今日は、自己所有権に関する論文をいくつか読んだのだが……
「大安寺別当の女に嫁する男夢見る事」(『宇治拾遺物語』)は、恐ろしい話である。
夢が「非現実」などという根拠を与えられる以前の存在感をもうわれわれは分からなくなってしまっているが、いまだって、どうみても嘘とは思われないリアリティを持った夢はいくらでもある。わたくしは昔から眠りが浅く、結構夢を覚えているような気がするのだが――、時々、起きているときにはストーリーを忘れてしまっているけれども、明らかに小学生あたりから続いているもう一人の自分の現実の、続編が夢のなかで始まったりするから、夢のなかで驚いたりする。昔の人が前世とかあの世を信じたのは無理はない。
男は、大安寺の別当の娘を好きになりすぎて、夜に忍んでゆくだけでなく昼間にも行っていた。で昼寝していたときに、恐ろしい光景を見たのである。大安寺の僧や尼君以下の大勢の人たちが、鬼に押さえつけられ、銅を溶かした熱湯を飲まされているのである。交際相手の娘も飲まされている。
細くらうたげなる声を差し上げて泣く泣く飲む、目鼻より煙くゆり出づ
で、男も飲まされてそうになるところで目が覚めた。舅の部屋の方ではみんなで食事をしていて騒がしい。この騒ぎが彼の頭に反映してとか考えるのが我々だが、この男は、
寺の物を食ふにこそあるらめ、それがかくは見ゆるなり
と思うだけなのであった。仏物濫用を批判するのがこの話の趣旨であろうけれども、――最近の「ひるね姫」ではないが、昼寝というのはなにか現実と繋がっている感じを抱かせて妙な決断すら促すところがある気がする。この危険性を昔の人は分かっていたのかもしれない。上の男は、ただ、この寺の娘と疎遠になるだけであるが、もっと激しく、寺の人々を成敗しようとする人間だって出てこないとは限らない。
だいたい、あまりに娘が好きすぎて、という感情が、このような地獄を垣間見させるというのは、いまでもありそうである。だいたい女性を昼間みるものではないというのは、なんとなく分かる気がするのである。だから、――男は自分の姿を鬼として見た可能性だってあるのではなかろうか。ただ、こういうものを個人が背負うのは難しいから、夢がどこからかやってくるみたいな感覚もあるのかなあ……。いまは、悪夢を自分のせいにしなければならないから大変である。漱石だって、自分のせいにしすぎだったに違いない。