★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

物怪と「量」

2019-09-26 22:26:06 | 文学


又あるあした、入道相国帳台よりいでて、妻戸を押しひらき、坪のうちを見給へば、死人のしやれかうべどもが、いくらといふ数もしらず庭にみちみちて、上になりした下になり、ころびあひころびのき、端なるは中へまろびいり中なるは端へいづ。夥しうがらめきあひければ、入道相国「人やある、人やある」と召されけれども、折節人も参らず。かくしておほくの髑髏どもがひとつにかたまりあひ、坪のうちにはばかる程になッて、たかさは十四五丈もあるらんとおぼゆる山のごとくになりにけり。かのひとつの大がしらに、生きたる人のまなこの様に大のまなこどもが千万いできて、入道相国をちやうどにらまへて、瞬きもせず。

平家に追い込まれ自害した頼政は、かつて近衛天皇の時に怪物を射落としたことがあった。「頭は猿体は狸尾は蛇手足は虎の姿にて鳴く声鵺にぞ似たりける」――そういう怪物である。この怪物に比べると、清盛の前に現れたものは、怪物とはいえない。語り手も「死人のしゃれこうべ」とはっきり言っている。頼政が倒したのが、永井豪の怪物たちだとすると、清盛の妄想は大友克洋みたいである。要するに、前者と後者の違いは、戦前の意識と戦後の意識のようなものではなかろうか。戦後の怪物はかならず人間の形をしている。永井豪は、戦争を予感し、大友は学生運動などの退潮の影響をうけて戦後を感じていたような気がする。

わたしは、過去の多く描かれてきた髑髏の絵画よりも、香川康男の「デモ」を思い出す。

シベリアのラーゲリのなかで行われたデモを描いたこの作品は、右上に馬の糞のように並んで固まったデモ隊と、左側の、ナメクジの黒い行進の痕跡のようなデモ隊の姿がある。自分たちのやってることの意味も分からず行われるそれは、怪物じみた感触を表出させている。

清盛は夢を見たに過ぎないと思うが、もっとすごいものを見ているに過ぎない。語り手は物語の都合上、死者の復讐みたいな意味の表象をだしてしまっているが、本当はもっと陰惨なものをみているはずである。上の絵画のような。

それはシンプルなものであり、観念と区別がつかない。なぜかといえば、本当はシンプルではないが、――数え切れないからである。

最近東浩紀氏も「悪の愚かさについて」(『ゲンロン10』)で触れていたが、笠井潔氏が世界大戦の「大量死」に対応する「大量生」という概念をあげている。二者の本質は同じものであり、人間が「量」に直面したときに如何に人間的に生きるかという問が、東氏や笠井氏の批評を動かしている。

わたくしは、そういう量の存在を氏等よりも感じていないと思う。量をあまり気にしない人間がこれから無造作に現れるだろうし、とわたくしは気楽に構えてもいるわけである。『平家物語』の語り手も、実はそこまで積み重なる死体に神経質なわけではない。文学はそういう気楽なところもあるのである。東氏のふええいた「ねじまき鳥クロニクル」は確かに「井戸」の用いて被害者が加害者に直接なり得るような位相を創り出すわけであるが、「ノルウェイの森」なんか、そんな井戸がなくても被害者が加害者になるような話な訳で、問題に直裁的なのはどちらだと問われれば、わたしゃ迷うね……。


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