控へてこれを聞きければ少しも紛ふべうもなく小督殿の爪音なり、楽は何ぞと聞きければ、夫を想ふて恋ふ、と詠む、想夫恋、といふ楽なりけり
さればこそ君の御事も思ひ出で参らせて楽こそ多けれこの楽を弾き給ふ事の優しさよ、と思ひ腰より横笛抜き出だしちつと鳴らいて門をほとほとと叩けば琴をばやがて弾き止みぬ、これは内裏より仲国が御使に参つて候ふ、開させ給へ、とて叩けけども叩けども咎むる人もなかりけり
ややあつて内より人の出づる音しけり、嬉しう思ひて待つ処に鎖を外し門を細目に開け幼気したる小女房の顔ばかり差し出だいて、これはさやうに内裏より御使など給はるべき所でも候はず、もし門違へてぞ候ふらん、と云ひければ仲国、返事せば門立てられ鎖さされなんず、とや思ひけん是非なく押し開けてぞ入りにける
源仲国は、高倉上皇の密命で清盛の追及を逃れて身を隠した小督を探しに嵯峨に来た。琴の名手である彼女が、想夫恋を演奏していたら、仲国にみつかってしまった。仲国は横笛の名手で音楽に通じていたので、分かってしまったのである。
雅楽 想夫恋(全体二返)~平安時代末期・鎌倉時代の雅楽譜にもとづく再現~
この音楽の名人による通じ合いが、結局は愛する二人の破滅を導いてしまう。高倉上皇との密会が清盛にばれて彼女は尼に、上皇は若くして死んでしまった。破滅が恋の破滅で済んでいた『源氏』の世界とは違い、文化的に優れた繊細な人々が権力によってあっけなく殺されてゆく世界が『平家』のそれである。しかしまあ、思うに、若いからしょうがないという感じがするのであるが、――つい、潜伏先で「想夫恋」を演奏してしまうところが、革命情勢の中で色恋沙汰の決闘をやらかしたガロアのようなものではある。
詩や歌詞の授業で、詩句に込められた気持ちを考えようというわけで、――児童が例えば、「好きだという気持ち」とかいうタチの悪い解答を叫びだし、教員が怯えて「そうだねー」とか言っている風景をよく見る。「言葉に込められた気持ち」とかいう下等なコンセプトで何もかも処理されたら、作品論もテキスト論も吹き飛ぶ――というより、言葉を使う意味がなくなってしまう。読みゃ分かる程度の表現の平板さそのものに注目せず、くだらない標語みたいな言葉で置き換えてゆく癖は最悪である。しかし、確かに、「好きだという気持ち」みたいなところをうろうろしている作品があることは確かで、上の音楽もそんなところがあるのかもしれん。つまり、「君の御事も思ひ出で参らせて楽こそ多けれこの楽を弾き給ふ事の優しさよ」しか思い浮かばない曲なのである。――とはわたくしは本当は思わないのだが、そういう風に推測するのが平安時代でもいまの学校でも「正解」なのである。
Shostakovich - Symphony No.5 - Third Movement
二〇世紀最高のメロディーとわたくしが勝手に決めている上の曲なんか、マーラーのアダージョ以上に「意味」を撥ね付ける。ショスタコーヴィチの曲が意味を過剰に読まれてしまうのは「意味」を撥ね付けてしまうからなのである。しかし、この性格がやはり芸術の「格」というものだとわたくしは思う。芸術の政治化を仮に目指すにしても、この性格を失ってしまってはいけないのではないだろうか。私見であるが、「思想・良心の自由」がある場合にのみ、その「格」が生じる。そのほかの場合は表現の自由にすぎない。