★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

見える牛と、見えない羊

2023-04-26 23:28:02 | 思想


無傷也、是乃仁術也、見牛未見羊也、君子之於禽獸也、見其生、不忍見其死、聞其聲、不忍食其肉、是以君子遠庖廚也

殺される牛がかわいそうなので、羊に換えなさいといった王である。孟子はそれでよいんです、王のされた行為こそ仁です、直接見ているものを憐れむのは当然で、それで厨房は遠くに建てるじゃないですか、と返した。

羊もかわいそうじゃないかと思うのは道理だが、――かんがえてみると、我々は、直接見たかわいそうな者は無視するくせに、遠くの羊を擁護することばかりしている。そのこと自体は「理念」としての弱者まで気を回そうとする点で正しいが、しかし、そればかりやっているとわれわれは欺瞞者になってゆく。まず目の前の人間が見えなくなってしまうのである。孟子は正しいね。。

この前の選挙で、ある知り合いが議員になっていたので、その人がどういう輩になっているか知らずに、まあガンバレと思ってしまったのは甚だ遺憾であって、しかも仕方がないとも言える。たいがい、与党になれる政党はそういうことを忘れていないのだ。われわれは、ジャンル自体にのめり込むことがあまりなく、作者とか俳優をおっかけるファン気質というかスートーカー気質であることを忘れてはいけない。民主主義だけでなく政治自体がジャンルである。当選者のバンザーイのまわりの人間(家族以外)がどういうひとか調べると、まあだいたい実際やれることというのは想像がつくのはそのせいである。政治ではなく、顔どうしのコミュニケーションを政治としてやる勇気がある人種が政治に乗り出すのである。

わたしは、ふつうに青春映画がだいすきだ。たいがい、お気に入りの女優さんがでているからだ。


でもそんなもんだろう。青春はジャンルで「羊」だが、女優や恋人は見える「牛」なのである。

しかし若い頃は羊にとりつかれることがある。なにしろ、20代の頃、「とっとこハム太郎」の映画で泣いたことがある私である。しかし、もはや人間の映画であればすべて泣けるというわけにはいかない。ああいう比喩だか実態なのか分からない動物の「萌え」は、牛への忌避と羊への愛着の間にある。その「間」はなんとなく引き延ばされた時間のようである。区切られていない、時間だから引き延ばされているのか?

大学時代のよいところは、その理念とも羊ともつかぬやりたいことのイメージがそのまま4年間の長さに入ったみたいなところで、大学院になると、イメージが消え五か年計画みたいないやなものになった。今の大学生が何が大変て、イメージを持つことが許されず、学校の授業の累積が4年間になっちゃって。授業そのものはわりとゆるいままで。


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