我れ無始よりこのかた悪王と生れて法華経の行者の衣食・田畠等を奪いとりせしこと・かずしらず、当世・日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし、又法華経の行者の頚を刎こと其の数をしらず此等の重罪はたせるもあり・いまだ・はたさざるも・あるらん、果すも余残いまだ・つきず生死を離るる時は必ず此の重罪をけしはてて出離すべし、功徳は浅軽なり此等の罪は深重なり、権経を行ぜしには此の重罪いまだ・をこらず。
前世の悪行がものすごかったので日蓮に選択の余地はなかった。彼の生涯はすでに仏典に書かれているとおりである。それにしたがって迫害に耐えるだけである。その際はさまざまな仏からも見捨てられるかも知れない。なぜかといえば、前世の悪王としての所業が無限だからである。「日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし、又法華経の行者の頚を刎こと其の数をしらず」。こういう量に還元された前世に対しては、当世においてもさしあたり量が求められる。本当は、問題は罪が具体性に於いて佞悪かどうかではないのか。
最近は、ある宗教団体が何十年ぶりに話題になっていて、壺がいくらだったとか聖典がいくらだったのかとか、があらためて掘り起こされている。もともとこの団体には、日本の前世――いわゆる「植民地支配」を問題にしているところがあった。だから日本の信者に要求されるものが量の問題になってしまうところがある。日本の原爆問題も似たような側面がある。原爆は、戦争の体験というものを量に還元してしまったのである。我々の戦争体験は、原爆によって体験であることを喪失した。
だから、戦後文学が必要だったのだが、案外、体験は避けられていたところがある。坂口安吾は、「インパール」などを褒めて、戦争の中で人間の真の姿が描かれつつあると言っていたが、果たしてそうであったか。