有る人云く当世の三類はほぼ有るににたり、但し法華経の行者なし汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり、此の経に云く「天の諸の童子以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わざらん」又云く「若し人悪罵すれば口則閉塞す」等、又云く「現世には安穏にして後・善処に生れん」等云云、又「頭破れて七分と作ること阿梨樹の枝の如くならん」又云く「亦現世に於て其の福報を得ん」等又云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出せば若しは実にもあれ若しは不実にもあれ此の人現世に白癩の病を得ん」等云云
お経には迫害者は結構な目にあうことになっているらしい。インドにあったという阿梨樹の木は枝が落ちるとき七つに裂けるらしいのだ。というわけで、不信心者は頭が七つに割れるということだ。どういう割方をしたら七つに割れるか分からんが、とにかく八つではない。西の方の「七つの大罪」に匹敵する恐ろしさなのである。
こういうひどい罰もなかなか現世では起きない。――というより、しょっちゅう起きているが、なかなか信心深い人もそこに含まれてしまうからかなわない。
教えは、さしあたり超越性をめざす。これは不思議なことだが、現実的にこうでもしないと、現実にいるボス猿を「ああただの猿じゃねえか、こいつに反抗してやろう」とはならないのであった。テロの多くが宗教がらみなのは当然なのである。それが必要でないときにはアヘンである。理屈をこねている場合はそうだ。かならず超越性の根拠付けに矛盾が生じる。日蓮が扱ったのは、長大な歴史を持つ宗教であった。ここに超越性を付与するのは容易ではない。彼は証拠書類の物量作戦と断定のレトリックにでた。案外アカデミックなやり方である。すなわちこれだけだと超越性は生じない。よって、彼は殉教者として行動した。
こういうやり方は革命家のやり方で、三島由紀夫なんかもそういう人である。しかし、革命家ではない人間が革命をやろうとすることは可能なのであろうか。そうでなくても、そもそも超越性を示すことがかのうなのであろうか。我々は、そういう問に疲れると、それなしでも対話性か何かで物事が進むかのように自分に言い聞かせるようになる。それが今の世の中である。
国語教育で行われている文学作品の主人公や作者に対する心情把握の問いは、力のない教員が行うと悲惨なことになるのかもしれないが、一応やっておかしくはないことである。原理的におかしいように思えても、現実的には実践的であることはあるものであって、心情把握なんてのもそれなのである。だいたい心情把握を前提にしないと言葉もコミュニケーションも成立しない。しかし、問題は、教育がそこで止まってしまうと、自分の感情の投影を主人公に行って「共感」みたいなところで読解が止まる悪いくせがつくことだ。そして、この癖を付けたためにそれ以降、国語が出来なくなってゆく子どもは多い。で、更なる大問題は、最近の自分の意見をつくるために読むみたいな読解方法が教科書で推奨されている傾向があって、それでますます癖が正当化されちゃうことである。――こうして、わけが分からない文章や意見には耳を貸さないどころか勝手に自分より劣っていると見做すようになる。だって、自分の意見をつくるために他の意見は存在しているわけだから劣位にあるわけである、しかも教科書でならったし、みたいな理由である。
メディアリテラシーの教育というのは、批判的検証が素人には不十分にしか出来ないことを軽視すると、トランプみたく、お前はフェイクで自分は正しいと思う傾向を後押しするのであった。確かにAだけどしかしBという論法もそうである。おそらく米国のどこかかからやってきたところの、我が国の国語教育に行われた一連の改革は、最悪なかたちでかように成果を上げつつあるのである。ちなみに、生徒や学生のかような独りよがりを解除するために話し合いをしたりするのは現実的には得策ではないというのが私の実感である。それで改心?するのはもともとできる学生で、たいがいはより多くの「AではなくB(自分)」が心の中で増殖するだけである傾向がある。必要なのは、教室の中で教師が飛び抜けた認識を示せるかどうかで、それは別に押しつけではない。正しいかどうかよりも、自分にとってどうかを優先するような思考は、超越的なものに対して押しつけと感じるような弱さなのだ。超越性によってのみ、我々は自分の意識との対話の契機を持つ。
その点、日本では超越している態度をとっているやつが軒並みどことなく間抜けな風なので、子どもたちにとって超越性どころか、早いうちに自分の方が優れていると思い込む可能性すらあるようだ。