風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへもしらぬわが思ひかな
恋の歌でもなんでもいいが、我が思いというのは、行方が知れないものであろうか。いや、確かにそうなのである。それは、富士の煙が消えてからどこに行くのか分からぬのと同じく、思いというものは見えるものではないし、それゆえ行方もわからないものである。しかし必ず存在しており、だから行方知れずの恐ろしさがあるのであった。
富士を、白扇さかしまなど形容して、まるでお座敷芸にまるめてしまっているのが、不服なのである。富士は、熔岩の山である。あかつきの富士を見るがいい。こぶだらけの山肌が朝日を受けて、あかがね色に光っている。私は、かえって、そのような富士の姿に、崇高を覚え、天下第一を感ずる。茶店で羊羹食いながら、白扇さかしまなど、気の毒に思うのである。
――太宰治「富士に就いて」
西行に比べると、太宰はこの前の所で「風呂屋のペンキ画」か書き割りか、とかケナしているくせに、富士そのものに拘って居る。これでは、原節子が出ていた同時代のナチス=日帝のプロパンガンダとあまり変わらないではないか。