★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

心と窓

2023-06-16 23:24:30 | 思想


孟子曰:「盡其心者,知其性也。知其性,則知天矣。存其心,養其性,所以事天也。夭壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」

心を極め尽くす者は人の本性を認識出来るし則ち天を知ることになる。心を維持し、本性を養うということが天に仕えることであるからだ。性善というより、本性は心や世の中を支えるもの天と不即不離であるにきまっているのだが、人間ができることは心を極めるような方向性にすぎない。そのことによって、天・人間の本性のことを知るしかない。

これには、文学研究のテキスト中心主義にも近いようなセンスを感じるし、漱石の「心」なんか、心が世界に直行する窓みたいなところがあるわけである。しかし、心の窓を覗き込むのはそれこそ、天への奉仕を前提とするような態度のことで、実際は、あれこれと視線を彷徨わすことが必要である。結局、孟子はちょっと落ち着いて反省せよみたいな殊勝さを要求している。――例えば、昨日は、戦時下の東条英機の演説などをいろいろ読んだが、こういうのも踏まえとかないと当時の知識人たちの言葉遣いは理解できないのかもと思った。昭和18年の6月15日の東条の演説の記事みて、おれの原稿が全然活かされてねえと西田幾多郎が怒ったという話があるが、東条の演説はちょっと情に訴えるようなかんじでインドのこととか言っているのに、西田の「世界新秩序の原理」はなんか冷めてる感じがする。そらまあほんとに冷めているんだろうけど。。

この時期は大変だな、山本五十六が亡くなって、鍋釜供出が本格的になったり、上野動物園の動物殺したのとか、学徒出陣。。『文学報国』は8月から出発だけど、他は次々に整理されちゃって。こんな場合の「心」は窓である余裕を待たない。漱石が「心」を書いたときだって、様々に動揺する時代だったはずだが、やはり漱石には今こそ窓を作るぞという破れかぶれさがある。

わたくしなんかは馬鹿だから、最近世を賑わしている、★末涼子氏の恋文のニュースをみて、――ヒロ末氏から恋文もらってないので悔しくてヒロ松渉を読んだ。恋文から共同主観性へのみちである。

昨日は、西田を切っ掛けにして、みっちり下村寅太郎の「近代の超克の方向」を授業で追った。このぐらいの長さの文章だと授業に収まる。「勤皇の心」はほんとあれだよ、しめ縄みたいになげえ。このような心の窓の彷徨は窓ではなく、蛇みたいになるだけだというのが、戦後の文学者になんとなく共有されていた危機感であるような気がする。


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