
君子之道四。丘未能一焉。所求乎子、以事父、未能也。所求乎臣、以事君、未能也。所求乎弟、以事兄、未能也。所求乎朋友、先施之、未能也。庸徳之行、庸言之謹、有所不足、不敢不勉、有余不敢尽、言顧行、行顧言、君子胡不造造爾。
君子が行うべき四つの道のひとつもまだ孔子でさえ出来ないそうである。例えば、「所求乎子、以事父、未能也」、(わが)子に求める所、それを以て父に仕えること、出来たためしがない。そりゃそうであろう、自分の子どもに要求することを、親にしてあげるのはなんかしゃれているようにもみえるが、自分の子どもが自分と同じものであることはありえないし、そもそもその要求が正しいとは限らない。
我々は、個々の人間を個々の人間として認識することさえほとんどしない。お盆になりゃ、帰省してきた自分の子どもや孫に自分の若い頃や先祖の姿さえ見てしまう、実際自分の子孫であるという点を置いておけば、姿形が似ているから、先祖も自分の子どもも一緒なのである。お盆で帰省するというのは、半分てめえは死者扱いな訳である。「帰省ラッシュ」のニュースを見ているとまさに、なんだろまさに「ポルターガイスト」の死者の行進や「死霊の盆踊り」を想起させられる。盆踊りをする子どもに先祖の姿をみるなどというのどかな光景ではない。
こんな自他がごっちゃまぜの世界では、個を確立しようとすると、せいぜいものの見方の問題になる。学生目線も学者目線もどうでもいい、我々に必要なのは草葉の陰目線であるように、つい思われてしまうわけだ。しかし、これがまた、生ざとりにしかならないのはいつものパターンだ。そこでは、目線の乱戦を超えた、人のせいにすることと正当な批判をすることの違いの混同が起こる。つまりこれが「上から目線」というやつである。自分の目線だけは相対化しない、目線を超えた目線は、なんでも人のせいにする子どもっぽくなる。
一つの常套語を正しい位置に置いてみたまえ。それを洗濯してみたまえ。磨いてみたまえ、輝かせてみたまえ、ことばが初めに持っていたときの若さ、そのときそのままの瑞々しさと、迸りとで、人の心を打つように。そうすれば諸君は、詩人の仕事をしたことになる。
――コクトー『職業の秘密』
ここで「人の心を打つ」ところだけが肥大化して我々自身を縛るのが我々の風土である。そこでは、命に関することは問答無用で心を打つことになっているのだが、命の大切さとはせいぜい死なない大切さであって、生きる意味とはほとんど関係ない。しかし、先の死霊の盆踊り的な環境で、死んでることと生きていることはあまり変わらないのである。我々の先祖たちはそれでも、いろんな儀式で、死んでいる者は死んでいる者だとあいまいに区別をつける努力をしていた。お盆にまつわる長々とした儀式が其れである。それを失った我々は、あまり区別しない仕草だけを身につけている。
区別しないことは、逃げることを許さないことでもある。命を支配するもの、――昔だったら死ぬことを強制する軍隊、いまだったら延命を強制する医学とか、いろいろあるだろうが、それらからひどい目にあった人は生きる自由を奪われて、気力と表現力が著しく奪われている。近代以降の命の人質化の酷さはまだ表現しきれない領域である。おそらく、介護なんかで結果として表れる鬱とか疲労とかは、お互いに命令を拒めない完全な不自由さからくる。社会のあり方においてもまったく同じようなことが起こっている。わたしは、だから、容易に「ケアの社会」とかを理念として掲げたくないのである。それは理念としての、孔子の四つの道の強制に過ぎなくなる可能性が高いからである。
救急車が走っていった。