
幅六尺ほどのこの渠は、事実は田へ水を引くための灌漑であつたけれども、遠い山間から来た川上の水を真直ぐに引いたものだけに、その美しさは渓と言ひ度いやうな気がする。青葉を透して降りそそぐ日の光が、それを一層にさう思はせた。へどろの赭土を洒して、洒し尽して何の濁りも立てずに、浅く走つて行く水は、時々ものに堰かれて、ぎらりぎらりと柄になく閃いたり、さうかと思ふと縮緬の皺のやうに繊細に、或は或る小さなぴくぴくする痙攣の発作のやうに光つたりするのであつた。
――佐藤春夫「田園の憂鬱 或は病める薔薇」
ここまでくると、もはや、或は私は居ないのである、みたいな感じであるが、文学者たちはそうなりきれなくて呻吟している。対して、西本聖投手の自伝はなぜか『長嶋監督の往復ビンタ』という題名で、表紙も長嶋監督の写真である。いまみたいに、自分の写真をでかでかと載せている本に比べてさすがとしかいいようがない。
あるいは、自分以外に興味がありすぎてというか、ほんとは誰かの罵倒芸を真似してみたいだけかも知れないが、――常に自分以外が没落し続けるのでどんどん自分だけかえらくなってゆくひとがいる。「或は」よりも速やかに。
そういえば、カスハラ対策で、文句言ってくるハラッサーの音声をその場で変換して、担当者の心理的打撃を小さくする対策があるとテレビで知り、笑った。わたくしのような、おじさんはもうついていけない。自分が毒虫や箱男になる前に、或は相手を怪物にしてしまおうという作戦である。