★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

純粋姫様の周辺

2025-03-11 23:40:16 | 文学
 かかる物思ひに添へて、三条いとめでたく造り立てて、「六月に渡りなむ。ここにて、かくいみじき目を見るは、ここの悪しきかと、こころみむ」とて、御むすめども引き具していそぎたまふ。衛門聞きて、男君の臥したまへるほどに申す、「三条殿は、いとめでたく造り立てて、皆ひきゐて渡りたまふべかなり。故上の『ここ失はで住みたまへ。故大宮の、いとをかしうて住みたまひし所なれば、いとあはれになむおぼゆる』と、返す返す聞えおきたまひしものを、かく目に見す見す領じたまふよ。いかで領ぜさせ果てじ」と言へば、男君「券はありや」と宣へば、「いとたしかにてさぶらふ」。「さては、いとよく言ひつべかなり。渡らむ日を、たしかに案内してよ」と宣へば、女君「また、いかなることを、し出だしたまはむ。衛門こそけしからずなりにたれ。ただ言ひはやすやうに、いみじき御心を、言ふ」と怨みたまへば、衛門「何かけしからず侍らむ。道理なきことにも侍らばこそあらめ」と言へば、男君「物な申しそ。ここには心もおはせず、御なめあしき人は、『いとあはれなり』と宣へば」、「わが身さいなまるる。よし」とて笑ひたまへば、衛門心得て、「いかがは申すべき」とて立ちぬ。

道理なきことには正義の鉄拳をと息巻く人に対して、姫様は誰にでもお気の毒だと思ってしまうみたいである。今でも、殲滅せよみたいな正義派と寄り添い派の両方がいる。しかしこの二つは別に対立しているわけではなく、後者が前者のように振る舞ったり前者が後者のようなことを言い始めるのが屡々である。そのためにであろうか、大して細々描かれていない姫様が純粋な存在として想定されていなければならず、これは我々の文化で人間を超えたお姫様が屡々顕れるのと同様である。この純粋姫様の周りに憎しみや笑いが決定的な亀裂を生じさせずに生起する。姫様は天皇の血を引くものであった。



藤井清治の『光り輝く神の御支配』(昭19)である。まさに、この時代からやたら「見える化」をやりたがっていた証拠のひとつであろう。各自に与えられたる神性は努力によって真に顕現するらしいのであるが、ハイデガーと違って死の影がなく、この図の2頁後には、教育とは「育成」ではなく「化育」であり、その者を喜ばしめつつ行われなければならない――みたいな、現代の絶対的自己肯定感みたいなことまで言うている。だいたいこの「神」に関しては、彼の「世界平和樹立理念の提唱」(昭16)でも、宇宙とはアマテラスの身体だみたいなことを言うているところからして、「天皇陛下萬歳」みたいな崇拝とはストレートに繋がらない。しかし、同時に天皇が現存在として措定されないとこの論法はありえないようにみえる。そんな困難に感づいたある読者が、デジタルライブラリーの元になったこの本の表紙に、この議論は観念的で云々と疑念を殴り書きしていた。昭和12年の「全人類之指導原理大日本教 : 大日本国の真態・日本人と其本領」にも終わりのほうには、宇宙と人間の肉体と心の関係が図示されている。宇宙には、神界、霊界、幽界、現界があって、これが最初のほうから順に土台になってピラミッドのように重なりその最後に現界(肉体)が乗っている。そしてこのピラミッド全体が「こころ」である。つまり宇宙は心である。――というわけであるが、この図に、現にいる天皇とか幽霊とか不肖の人民とかがどこに位置づけられるのかわからないと同時に、心が肉体に従属した主観であるみたいな通念を転倒する勢いが、どことなく気合いありげにはみえる。これは復讐劇としての図式でもあったわけだ。

思うに、継子いじめや復讐劇も具体的にみえるが、それがそれだけでおわらない側面をあまり深く考えすぎると、上のような図式=空想に陥るのである。このような帰趨を我々は笑えない。官庁の世界のポンチ絵なんか、これと大差ないからだ。そういえば、与えられた個性が不可侵である(神性)という前提の元、「みんなちがってみんないい」が道徳化するとこんな感じになっているではないか。みんなの違いを全部記述してから言ってくれ、というやつである。逆に、キョンシー映画は「霊幻道士」という名前ついてたが、いま見るともはや人道映画にみえる。なぜかといえば、その「霊」とか「幻」がちゃんとぴょんぴょんとでてきて、人間の欲望と闘っているからである。宇宙とか霊界が出てこないのは重要である(すくなくとも一作目はそうだった記憶がある)。キョンシーと人間たちの暴力とは、人間の欲望の表れにすぎないところに笑いがある。これにくらべて、落窪の暴力と笑いは、慈悲と支配による平和に導かれる。これは人間の感情ではなく、何かそうしなければならない情動のせいである。むかし、ユーモア論というのがポストモダニズムのなかでも流行ったことがあったが、そのなかでフロイト的なヒューモアが、自己の解体みたいなものとセットのものとして持ち上げられたこともあった。要するに人間の行為の成長と関係づけられている(下手すると最近はこういうものでさえ、コミュニケーション能力らしい――)わけだが、もともとGalgenhumorは、実際の死刑台で放ってなんぼなのだ。みんなで仲良く放つものではない。ユーモラスな人間たちが、どのような情動に突き動かされているのかは、観察してみないと分からないのは当然だ。

そういえば、ニュー・マテリアリズムのカレン・バラッド『宇宙の途上で出会う』みたいな本は下手をすると、藤井清治みたいになるところがあるんじゃないだろうか。問題=物質(マター)とか、「こころのますがた」と何処が違うのだ。


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