
子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪。
詩三百篇、一言で覆うような言い方をすればそれは「心の邪なところのないまっすぐなもの」である。
これで喜んでしまう者は絶望すべきで、まず前提として孔子は三百も詩を読んでいたということだ。だから、小学生が「ごんぎつね」を読んでかわいそうとか言っているのとはまったく別物なのである。普通に詩を三百もよめば、我々は大概複雑な感想を言いたがるもので、それこそ心が邪になり曲がりくねった心になってしまうからである。孔子の言っているのは、そういう評論家じみた心のことではなく、詩の創作が結局のところ、その発出地点の素直さにあることを言っているのである。童話がいいとか小学生の詩の方が大人のそれよりもよいみたいなことではない。大概の童話や小学生の詩は、他人の心が分かったりふりをする邪なものである。我々が神頼みとか儀礼に期待しているのは、好意の強奪みたいなことであって、童話や子どもがそういう仮面としての純粋さに動員されているのはよく見る風景だ。
そういえば、善光寺のびんずるさんを盗んで松本で犯人が捕まったらしいけど、びんずるが「みんなに脂ぎった手で触られてきもちわるいから救い出して」と言ったのでやさしい犯人が救い出したのかも知れない。犯人はびんずるさんが大好きで一緒に逃避行しちゃったとか。。。犯人とびんずるを触る者のどちらかが邪かどうかはわからない。無論可能性が高いのは、犯人がより邪な可能性である。戦後文学は、たいがい、こういう邪さのなかに生きる意志や純粋性の萌芽や発酵を期待していた。三島由紀夫がその代表格である。
ネットをみていると、坂本龍一が好きだった人はむろん多いのだが、目立つのは、じかに坂本に会ったことのある人の多さである。ほんと広義の上で活動家だったんだなと、感心する。それは仕事の幅を広げるための活動でも無論あったわけだが、それでも自分の音楽が自分の音楽であることに自信を持っているのはすごいことで、三百人の人間と接触しながら、邪にならなかったのはすごい。そのために、彼は思想的にもほとんど非転向である。
芹沢俊介も亡くなった。芹沢は、吉本隆明の影響下にあった人で、彼の影響から家族論みたいなところに行った。それを文学からの堕落みたいな形で捉える人もいるだろうし、それはそうだと思う一方、それも大いに吉本の性質の一つだろうとも思う。ある種、文学を放棄しているのは、柄谷よりも吉本の方なのである。吉本チルドレンと吉本の違いは、吉本が自分の邪さに正直だったのに、チルドレンの方はそうでもないところがみえたことだ。詩人や小説家の場合は、その邪さと向き合うことができるが、評論家になってしまうとどうしてもそれが難しくなる。吉本は詩にこだわりすぎていて最後まで評論家ではなかったように思われる。