★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

隠世と香川

2023-08-11 23:11:05 | 思想


子曰、素隠行怪、後世有述焉。吾弗為之矣。君子遵道而行、半塗而廃。吾弗能已矣。君子依乎中庸、遁世不見知而不悔。唯聖者能之。

世間から隠遁して名が知れなくても後悔はしない、これは聖人だけが出来ることなのだ、と孔子は言う。確かに、そうであろうが、隠遁とはどういう物質的状態をいうのであろうか。調べたことはないのだが、わたくしの中国ドラマの視聴に拠れば、隠遁した聖人は、ほんとに山にこもっている。三国志の孔明もどっかの山奥に引きこもって琴を弾いていた。

レイチェル・バークの『文化を映し出す子どもの身体 文化人類学からみた日本とニュージーランドの幼児教育』を少し読んだが、こういう場合の、日本とかニュージーランドとは、地理的に影響される身体について考慮されない「文化」空間のそれである。

空海が香川でどれだけ過ごしたか知らんけど、なかなか雨が降らずに砂漠みたいな所なのに、ときどき川の氾濫が起こる。こんな旧約聖書みたいなところで、空と海とがいつも青くて、妙な果てしない気分になってくる。木曽や関東ではこんな妙なかんじはなかった。藤村が海外に行って広い視野を知っていたからこそ、日本に帰ってきて「夜明け前」を木曽を日本の比喩みたいに描いたのは、その中山道の狭隘さと木曽川とともに知が流れてゆく性急さに日本の姿を見たからでもあろう。わたしも木曽にいた頃は、あまり放浪する気が起こらなかった。十分、自我が流れる何かそのものであるきがするからである。日本も香川には、そんな流れる何かはない。香川の滞留する空気と無限にのびた海と空のせいか、空海は、真に隠遁する地をもとめて本州に行ってしまった。


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