★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

艶笑的テロリズム

2022-08-21 23:56:51 | 文学


おのおのこはやと、談合して、指折の娘どもを集め、それか是かとせんさくする。未白齒の女泪を流し、いやがるをきけば、「我我が、命とてもあるべきか」と、傘の神姿の、いな所に氣をつけて、なげきしに、此里に色よき後家のありしが、「神の御事なれば、若ひ人達の、身替に立べし」と、宮所に夜もすがら待に、何の情もなしとて、腹立して、御殿にかけ入、彼傘をにぎり、「おもへばからだたをし目」引やぶりて捨つる。

これは艶笑譚として有名な「傘の御託宣」である。処女たちがこんな傘に捧げられるのはいやです殺す気ですか、といったところ、未亡人が「神様のことなのでわたくしが身代わりに行きます」といって、傘のモトにいったが何も起きないので、「考えてみたら見かけ倒しじゃねえか」と言って傘を引きちぎったという結末である。そもそも、どっかとんできた傘を神様にしてしまった村人が一番狂っているのだが、それをシモの隠喩のほうから暴いた未亡人は素晴らしい。――というより、日本の神様信仰というのは、そもそも、柱、そういえば性的なイメージだなあ、と、こういうところがありながらのものであって、別にここで何かが破壊されたわけではない。むしろ、日本の通常運転なのである。確かに、表現そのものは近世らしいのかも知れないが。。

思うに、このような打ち壊し的な神殺しは、テロ的なのかも知れない。破壊することでしか、価値が動かない。これは権利のための行動、パルチザン的なものとはちがう。我々の国はやはり、内戦と全体主義のくり返しをまだ続けているのである。これでは、侵略戦争への抵抗など夢のまた夢である。太平洋戦争のときもそうで、われわれの戦争のやりかたはテロ的だったのだ。愛国心は基盤に権利のための行動が横たわっていないといけないのだ。以前、シラスの仏教講座で、仏教には否定の契機が基盤にある宗教で、かならず肯定の思想に敗北する、ということを聞いた。たしかにそうかもしれない。

否定の契機と停止の契機はたぶん、文脈によってかわるだけで、おなじものだ。われわれは貶し言葉として「思考停止」とよく言うけど、自分でもそれを経験したことがあるから言っているのである。しかし、実際、文字通りの「思考停止」なんていうのはどんな石頭でも起こっていない。いわゆる思考停止の思考運動様態みたいなのというのは面白いテーマだだ。

柄谷行人の「日本近代文学の起源」は、一種の伝統創出行為であった。なまのままの現実は滅亡の危機にある。だから、制度的なものであったということで復活させるのである。ある意味ルネサンス的な思考である。江藤淳になく柄谷にあったのはそういう衝動である。それに無自覚なアカデミシャンはかれの方法を系譜学とかいって真似たが、この両義性をよく分かっていなかったのかもしれない。そもそも我々には、否定や肯定などというものが思考の実態として存在するのであろうか。

伊勢田哲治氏の「フィクションはいかにして理由つきの主張を行うか」で、映画「スターシップ・トルゥーパーズ」は、反ファシズムという作り手の主張を必ずしも実現していないとみている。映像を主語とすると、述語たる意図がなかなか機能しがたい。しかし、それは主語や述語が映像にきちんと合わさる概念であればの話である。エイゼンシュタインの時代から問題だったそれはいまだに問題である。


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