★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「えぞ書き続けはべらぬ」の実態

2020-03-16 19:34:58 | 文学


御帳の内をのぞきまゐらせたれば、かく国の親ともてさわがれたまひ、うるはしき御気色にも見えさせたまはず、すこしうちなやみ、面やせて大殿籠もれる御ありさま、常よりもあえかに若くうつくしげなり。小さき灯籠を御帳の内に掛けたれば、隈もなきに、いとどしき御色あひの、そこひも知らず清らなるに、こちたき御髪は、結ひてまさらせたまふわざなりけりと思ふ。かけまくもいとさらなれば、えぞ書き続けはべらぬ。

「かけまくも」という御祓いみたいな言葉を使って「もう書き続けられないです」と言う紫式部の気持ちはよく分からないが、「国の親ともてさわがれたまひ」というところと対になっていることは考えられるのではなかろうか。周りが国母だと勝手に大騒ぎしているけれども子どもを産んだ可愛そうな女の子なのだ。まだ七日目なのである。

とはいえ、われわれの文化がこの「常よりもあえかに若くうつくしげなり」で頭がストップしがちなのはよく言われていることではあるが、抵抗の側面ではなく我々を形作る本質だとみておいた方がよいと思う。これは「えぞ書き続けはべらぬ」と同じ気分を表現しているのである。

善行為とは凡て自己の内面的必然より起る行為でなければならぬ。曩にもいったように、我々の全人格の要求は我々が未だ思慮分別せざる直接経験の状態においてのみ自覚することができる。人格とはかかる場合において心の奥底より現われ来って、徐に全心を包容する一種の内面的要求の声である。人格其者を目的とする善行とは斯の如き要求に従った行為でなければならぬ。これに背けば自己の人格を否定した者である。至誠とは善行に欠くべからざる要件である。キリストも天真爛漫嬰児の如き者のみ天国に入るを得るといわれた。至誠の善なるのは、これより生ずる結果の為に善なるのでない、それ自身において善なるのである。人を欺くのが悪であるというは、これより起る結果に由るよりも、むしろ自己を欺き自己の人格を否定するの故である。

――西田幾多郎「善の研究 第十一章」


「我々の全人格の要求は我々が未だ思慮分別せざる直接経験の状態においてのみ自覚することができる」というが、我々がこの「直接経験」において感じるのは果たして上のような紫式部のような書きぶりであろうか。たぶんそうではあるまい。「全心を包容する」と言っているが、これはもはやカッシラーがブルーノを論じて「人間は無限の宇宙(アル)を己のうちに引き入れることによって、また逆に己れ自身を無限に拡大していくことによって、真の自我を見出す」と述べる感じに近い。むろん「引き入れ」や「拡大」は抽象的な行為ではなく、文学的といってよい「センス」の世界である。これは決して万人にはお勧め出来ないものである。そのために仏教だったら、そこに躊躇いをもつための修行が必要になったのであろう。


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