★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

平安的尿をめぐって

2020-03-17 23:29:56 | 文学


あるときはわりなきわざしかけ奉り給へるを、御紐ひき解きて、御几帳の後にて、あぶらせ給ふ。
「あはれ、この宮の御尿にぬるるは、うれしきわざかな。このぬれたる、あぶるこそ、思ふやうなる心地すれ。」
と、喜ばせ給ふ。


あるとき、親王様、この上ないあれを道長様にひっかけてしまわれたのであるが、しかも道長様は着ていた直衣の紐をほどき几帳の後ろで女房にあぶさらせなさるのであった。「嗚呼、この親王のおしっこに濡れるのは嬉しいことだよねえ。この濡れたのをあぶる、念願叶った気持ちだよねえ」とお喜びであった。

ああそうかい、これでも食らえ。

柄杓から飛び出す糞尿は敵を追い払うとともに、彦太郎の頭上からも雨のごとく散乱した。自分の身体を塗りながら、ものともせず、彦太郎は次第に湧き上って来る勝利の気魄に打たれ、憑かれたるもののごとく、糞尿に濡れた唇を動かして絶叫し出した。貴様たち、貴様たち、負けはしないぞ、もう負けはしないぞ、誰でも彼でも恐ろしいことはないぞ、俺は今までどうしてあんなに弱虫で卑屈だったのか、誰でも来い、誰でも来い、彦太郎は初めて知った自分の力に対する信頼のため、次第に胸のふくれ上って来るのを感じた。誰でも来い、もう負けはしないぞ、寄ってたかって俺を馬鹿扱いにした奴ども、もう俺は弱虫ではないぞ、馬鹿ではないぞ、ああ、俺は馬鹿であるものか、寿限無寿限無五光摺りきれず海砂利水魚水魚末雲来末風来末食来寝るところに住むところや油小路藪小路ぱいぽぱいぽぱいぽのしゅうりん丸しゅうりん丸しゅうりん丸のぐうりんだいのぽんぽこぴいぽんぽこなの長久命の長助、寿限無寿限無五光摺りきれず海砂利水魚水魚末雲来末風来末食来寝るところに住むところや油小路藪小路ぱいぽぱいぽぱいぽのしゅうりん丸しゅうりん丸しゅうりん丸のぐうりんだいのぽんぽこぴいぽんぽこなの長久命の長助、さあ、誰でも来い、負けるもんか、と、憤怒の形相ものすごく、彦太郎がさんさんと降り来る糞尿の中にすっくと立ちはだかり、昴然と絶叫するさまは、ここに彦太郎は恰も一匹の黄金の鬼と化したごとくであった。折から、佐原山の松林の蔭に没しはじめた夕陽が、赤い光をま横からさしかけ、つっ立っている彦太郎の姿は、燦然と光り輝いた。

――火野葦平「糞尿譚」


わたくしは火野葦平に共感しているのではない。ここに見られるのは、「貴様たち、負けはしないぞ」という内面であり、糞尿でも悪態でもどちらでも良いからだ。近代文学は案外語りすぎることによって、語りが対象を模倣しきれずに終わることがあるような気がする。対象に迫るという意味で正しいのであるが、一方で主人公=主観みたいな極に長く留まりすぎる傾向も持った。優れたワキたることは難しいのである。紫式部は公務員的なきまじめさをもって、その役割を果たしている。そして、道長が別に親ばかというだけじゃなく、おしっこかけられても大丈夫のような人物であることを予祝しているのであろう。火野葦平のやり方では、逆に自分に糞尿をぶっかける羽目になりそうなのだ。


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