★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

庭を楽しむ条件について

2023-04-24 23:18:29 | 思想


孟子見梁惠王。王立於沼上,顧鴻雁麋鹿,曰:“賢者亦樂此乎?” 孟子對曰:「賢者而後樂此,不賢者雖有此,不樂也。詩云:『經始靈臺,經之營之,庶民攻之,不日成之。經始勿亟,庶民子來。王在靈囿,麀鹿攸伏,麀鹿濯濯,白鳥鶴鶴。王在靈沼,於牣魚躍。』文王以民力爲臺爲沼,而民歡樂之,謂其臺曰靈臺,謂其沼曰靈沼,樂其有麋鹿魚鱉。古之人與民偕樂,故能樂也。湯誓曰:『時日害喪,予及女皆亡。』民欲與之偕亡,雖有臺池鳥獸,豈能獨樂哉?」


孟子が王様に会ったら、王様は広い庭にいる雁や鹿たちを眺めて「賢者もこういうのを楽しむのか」と尋ねた。賢者だからこそ楽しむのです、こういうものは昔から民は喜んで王のために創るんです。反対に、「この太陽はいつなくなるんだ、一緒に死んでしまいたい」と思われたらおわりです。こんな状況になったらとても楽しんではいられないのです。

だから、動物たちがいる庭を造りゃいいというものではない。まともな政治をしていないとそれを民が一緒に楽しむことはありえない。賢者が庭を楽しむか、みたいな質問はあまりよくなくて、賢者はそれ自身で賢者ではなく、庭もそれ自体よい庭があるわけではなく、良いか悪いかは民との関係にあるにすぎないからである。しかしこれをきいて、庭に雁や鹿を放て、民よ創りなさい、と頑張ってしまう王がたくさんいるであろうことも確かで、ほんとは大概、こういう勘違いな人たちによって指示され、知者たちが庭を造ってきたのであろうと思う。そして、王の権威を殊更示さなければいけない事態になると、知者たちを穴に入れたり、書物を焼いたりするのであった。こんなことを、中国にかぎらず繰り返しているのが我々の世界である。

しかしまあ、政治権力が、庭園をつくって鹿を楽しむみたいなものの意味をわかっていない政治家も増えてしまったような気がする。唯一分かっていそうなのは、麻★太郎で、漫画が好きで「キャラクターって知ってる?」みたいなことを談話でだしてしまうような人である。これによって勇気づけられたサブカルの方々は案外多かったような気がする。例の桜の会だって、そういうものの延長線上にある。彼らは、だからだめなんだともいえるが、こういう素朴なことを忘れると、革命勢力が王であることはありえない。ソ連だって、崩壊の足音は芸術家弾圧にあったし、しかし同時にプロコフィエフやショスタコービチの保守化のおかげでソ連は国内で求心力を一部保ち得たこともたしかなのであろう。

儒教を勉強すると、それが君主をいさめるための目的を持っていたことで、独特な下から目線みたいなものを持続させていて、生命力をもつに至ったんじゃねえかという気がしてくる。それを上からの道徳にすると危険なのだ。それは上のような事情にもよる。結局、君主を諫めるレトリックは、解釈を必要とするので、それこそが苦手であろう君主には通じない。そういう連中が桜の会とかクールジャパンとか言うて、民が太陽と一緒に死にたいと思っていることを忘れる。で、一部の上からの権力は下からの権力で消去するしかないと思ってしまう、これまた解釈を間違える輩が出現するのであった。


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