
学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知而不慍。不亦君子乎。
学んだり復習したりすることが楽しいというのは禁欲的な態度で、楽しいというのは保証されていないのだが、禁欲的であるために楽しいと言わなければならない。友は近くにおらず遠方からくる。むろんいつも学んでいる人間には簡単には遊び友達というもの自体がいないものである。そして真の友とはそこらにいる奴ではなく、遠くからくる人間、やってこないかも知れないレベルの人間である。これも学ぶことの喜びなみに希少なことである。人が自分を知らないからといって不満であってはならぬ。確かにそういう気持ちは普通あるが、それを抱かないことこそが教養人(君子)というものである。これもあり得なさそうな希少な可能性で自分を支えてこそ、我々がまともでいられるということを示していると思う。
これはしかし、われわれにとって、自らに我慢を強いるためにこそ、楽しさとか教養人であるみたいな矜持を必要とするようなきついやり方であって、どうもなんというか、現実、それだけでなんとかなるものではない。人には、虚栄心やサボり心だけではなく、好みというものがあるからである。
わたしは中学生の頃から村上春樹がなぜか何回読んでも好きになれず、いろいろ理由はあるんだろうが、今日気付いたのは、なんか単純に本の装幀が好きじゃないんじゃないかという気がしてきた。憎さあまって袈裟までも、ではないような気がする。こういうことすら好みの問題であって、村上春樹を読むのは楽しいではないか?と説教されても、そうですか、としかいいようのないものである。
どうも文字ばかりの小さい本や画面だと、この「好み」の問題は、なにか漠然としたものになってしまう。もう少し「好悪」の密度が博く目の前にあったほうがよい。わたくしはつい、村上春樹の文字に対して装幀の大きさに負けたのかも知れない。さっき、マンディアルグの「レオノール・フィニーの仮面」を生田耕作の訳で読んだ。こういう大きい本で絵がついているのは楽しいな。なんか文庫本やスマホは小さいところが似てて、われわれの意識を小さくしている気がする。源氏の時代、巻物は、スマホよりは大きかったはずだ。大きい流れるような字でかかれた源氏物語は、まるで、歌の部分なんか、自分に対して読まれているようだったにちがいない。