★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

本性と過程

2023-06-10 23:42:20 | 思想


孟子曰、牛山之木嘗美矣、以其郊於大國也、斧斤伐之、可以爲美乎、是其日夜之所息、雨露之所潤、非無萠蘗之生焉、牛羊又從而牧之、是以若彼濯濯也、人見其濯濯也、以爲未嘗有材焉、此豈山之性也哉、雖存乎人者、豈無仁義之心哉、其所以放其良心者、亦猶斧斤之於木也、旦旦而伐之、可以焉美乎、其日夜之所息、平旦之氣、其好惡與人相近也者幾希、則其旦晝之所焉、有梏亡之矣、梏之反覆、則其夜氣不足以存、夜氣不足以存、則其違禽獸不遠矣、人見其禽獸也、而以爲未嘗有才焉者、是豈人之情也哉、故苟得其養、無物不長、苟失其養、無物不消、孔子曰操則存、舎則亡、出入無時、莫知其郷、惟心之謂與。

孟子曰く、牛山の樹木は美しく茂っていた。しかし皆で樹木を伐採したので美しくなくなった。牛や羊の放牧によってますますはげ山となり、人々は元の姿を忘れてしまうんだが、果たしてこの姿はこの山の本性であろうか。仁義の心も誰かが伐ってしまっているからなくなってしまうんだ。夜明けに澄んでいた心も、日中の所業が良心に枷をつけて縛ってしまう、これを繰り返していりゃ良心はもともとなかったかの如く、禽獣だ、と。

孟子は、伐採と放牧の違いこそ書き込んでいるが、どうして生えてきたものを伐ると良心がなかったごとくなってしまうのかは、あまりちゃんと説明しているとは言えないと思う。それに、夜明けには心が澄んでいる前提はおかしいな。。。

こういう二元論的な見方は、教育から人為的なものを取り去ればよいと考えたり、逆に、人の行為や思考の複雑なプロセスに対して適切に介入・支援できると考えたりする容易さに繋がっているのではなかろうか。山本七平の著作を読み直している余裕がないけれども、「空気を読む」みたいな言い方が流行してから、法などに基づいた権利を守る行動の前に、存在していないとそもそも人間社会としてうまくいかない細やかな気の使いようの必要性が、どっかに吹き飛んでしまった。当たり前だが、昔から同調圧力や空気だけで共同性は成り立っていたのではない。したがって、崩壊したそれを復活させようとして『協働』や『チームなんとか』というスローガンの放つ「空気」で強制しようとしても成り立たつはずがない。個人を成り立たせるための集団内での気の使いようが協同性には必要なのであって、それなしにロボットみたいに集合だけしてても動かない。軍隊ですらそうだったはずである。

教育でも「居場所」みたいな言葉が多く使われるけれども、ちょっと安寧・箱庭的というか自足的ニュアンスがつきまとうから、昔風に「足場」みたいな言い方の方がいい気がするのだ。集団のなかで個人が拠って立つものは様々な形をとるからである。すなわち、拠って立つものが安全安心みたいな観念にとらわれすぎると、その拠って立つものがある種の防衛的言動そのものだったり、庇護そのものだったりすることが問題になりにくくなる。ちいさい子どもにとってはバリケードが桎梏だったりするものである。たぶん、自らの「弱さ」を自覚する子どもにとってその心理的カラクリは欺瞞ではなく生きるための必死の策ではあるが、それを積極的な拠って立つものにしてしまうと生き方として欺瞞になってしまう。マイノリティ運動にもつきまとう事態である。

「支援」のような観念にも似たようなことが言える。この言葉は、子どもそれぞれの思考過程を重視するようでそうでもない。教育目的に奉仕させがちになるのはもちろん、失敗によって過程を作り出すタイプを甘やかしたり排除しがちである。そもそも子どもの性質とか性格ごとの違いには神経質になる一方で、過程の複雑さに対して観察の目がぼんやりしているのはまずい。ここ何十年か自明化しているワークシートはもちろん子どもの個々の思考過程の消去だし、言うまでもなくグループワークは個々の思考過程が教師から見えにくくなる。見える化や対話といった観念が目的化することによって起こった、結果的には、個への攻撃である。

先日、小学校のときの担任の先生が若い頃書いた国語教育に関する論文を古い方から読んでみた。昭和五〇年頃の四〇代半ばで中学生を教えてた頃までは調子が闊達で、生徒の発達過程に対する信頼がありそうなんだが、それ以降どことなく子どもが拠って立つ「足場」が形成されにくい現状に対して当惑と疲労が見られた。おそらく、子どもの思考過程より個そのものへの違和感が目の前にちらつきすぎたのである。このとき指導していたのがわたくしのクラスであって、まったく申し訳ないとしかいいようがない。こういう親の未成熟と相即的であるところの不安定な人間たちを相手にしてばかりいると、教師は子どもの思考過程を観察する精神的余裕を破壊されてしまう。現代の「一人も取りこぼさない」云々という宣言は、個の尊重のふりをした個への違和感を消去したくて仕方がない我々の歎きでもあって、最悪の場合、ますます集団内の均質化に向かうにきまっている。必要なのは、人間の成長過程をものすごく長く想定し、それを観察できる環境を失わないことである。マイノリティ運動もおそらく性急な世界の改造を望みがちであるし、当然の権利ではあるが、それは長い改造過程を許容することでないとかならずバックラッシュしか起こさない。その意味において幸運なことにというか、なんというか、わたくしのいたクラスは六年間一人の担任が我々を観察し指導した。しかし、童話作家でもあった先生の創作は、その疲労故にか低迷期であった。


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