
喜怒哀楽之未発、謂之中。発而皆中節、謂之和。中也者、天下之大本也。和也者、天下之達道也。致中和、天地位焉。萬物育焉。
喜怒哀楽が発動していない状態を「中」とすべし。そして発動したとしても節度が保たれていればそれを「和」とみなすべし。発動した状態が世界なのではなくて、発動していない「中」の状態が世界の根本である。だから、「和」をその世界を体現する人の道と見做せるのである。
道は、中を和として表出できる心の経路みたいなものである。これは一方通行で、喜怒哀楽から逆に未発の状態に与えるもののことは考えなくてもよいことになっている。なにもしなくてもよいのではなく、ペンディングすることが求められているような気がする。
写生文家は自己の精神の幾分を割いて人事を視る。余す所は常に遊んでいる。遊んでいる所がある以上は、写すわれと、写さるる彼との間に一致する所と同時に離れている局部があると云う意味になる。全部がぴたりと一致せぬ以上は写さるる彼になり切って、彼を写す訳には行かぬ。依然として彼我の境を有して、我の見地から彼を描かなければならぬ。ここにおいて写生文家の描写は多くの場合において客観的である。大人は小児を理解する。しかし全然小児になりすます訳には行かぬ。小児の喜怒哀楽を写す場合には勢客観的でなければならぬ。ここに客観的と云うは我を写すにあらず彼を写すという態度を意味するのである。この気合で押して行く以上はいかに複雑に進むともいかに精緻に赴くともまたいかに解剖的に説き入るとも調子は依然として同じ事である。
――夏目漱石「写生文」
漱石は、写生文を大人と子どもの比喩を用いて説明した。たぶん、「中」を認める態度は、この大人が子どもに同情しきらないような「客観」的なかんじに近い。お互いの喜怒哀楽に感応し合うだけのコミュニケーション、――それぞれの感情に同情して、あるいは同情したふりをするのは、われわれがその「客観」的な「中」のかんじを失うことを意味する。道徳はこのかんじにしか求めることは出来ない、と「中庸」は主張するようである。