★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

顔の見えない極楽往生

2018-10-13 23:38:22 | 文学


「仁戒上人往生の事」(『宇治拾遺物語』)は、極めて学識豊かな仁戒が俄に道心を起こして寺を去ろうとしたのであるが、あまりに優秀だったので、引き留められてしまうところから話は始まる。仁戒はなんとかして寺を去ろうと、女の所に通ったふりをしたりしてだめな修行者を演出するのであるが、そのあふれでるすごさに結局は尊敬されてしまうのであった。まったく、こんな人物になってみたいものである。われわれの大概は、偽悪だとかいって言い訳をしても、ホントの小物ぶりがかえって露わになってしまい、最近などは病気扱いにされかねない。そして、本当に病気だったりすることもあるからやっかいだ。

それはともかく、仁戒は、ある郡司に尊敬され、「ご臨終にお会いしたいです」と言われ「それは簡単です」と言ってのけた。ある日、郡司の家に仁戒がやってきた。部屋からは良い香りが漂っている。なかなか起きてこないので、部屋に行ってみると、往生していた。

暁香ばしかりつるは極楽の迎へなりけり、と思ひ合す、終りに逢ひ申さんと申ししかばここに来たり給ひてけるにこそ、と郡司泣く泣く葬送の事もとり沙汰しけるとなん

尊敬する人たちの率直さになんだか極楽の匂いまで感じられるが、――仁戒の何がすごかったのか結局よく分からない。死ぬときが分かるとか、そういうことがすごさの本質ではないことは明らかではないか。それにしても、優秀そうな人の自由を組織が奪ってしまうことはよくあることである。そして、その人が本当に優秀かどうかは、組織を飛び出したり道心を起こしたりすることとは関係がない。

そういえば、この僧はどのような人相をしていたのであろうか。本文からはそれはわからない。芥川龍之介のやったことは案外、説話にそんなあからさまな事象を付け加えていくことだったのかもしれない。確かに、観相学をはじめ、顔は近代ではやっかいな問題だ。このまえ、大山顕が自撮り写真批判に対して「優生学の匂いを感じてしまう」と言っていた。

わたくしは、自撮り写真には極楽往生の匂いがすると言いたい。


最新の画像もっと見る