
道也者、不可須阿臾離也。可離非道也。是故君子戒慎乎其所不睹、恐懼乎其所不聞。莫顕乎微、故君子慎其独也。
ここまで見えないもの、しかも離れられないものが「道」であるならば、我々が普段使っている書道、武道、まんが道、などなどはほとんど「道」ではなく、「活動」などと言ったほうがよく、そうしないと、たかが部活の規則とか部室の戒律のようなものが「道」面することになる。論理的にはそういうことになるとおもうが、この教えの巧妙なのは、我々がやっていることが道に反していると分かっている際にも、われわれを全否定するのではなく、慎んだり懼れたりすることによって見えない「道」を目指していることにしてもよいみたいな処世術が書かれていることである。やはりこれは倫理というより統治法である。自分の人生の幸福みたいな観念をそれ自体で追求する態度が屁みたいな実効性しか持たず、天下国家が安寧でなければとりあえず死んでしまうよのなかでは、政治が美徳として追求されるのである。
ヴィトゲンシュタインは、どこかで、お前の人生の悩みはお前が人生の「型」からはずれているからだ、みたいなことを言っていた。これはいまでは反発を食らうだろうし、ヴィトゲンシュタインはファシストかみたいな根拠にもなりうるのであるが、――だいたい幸福の追求ができる人間というのはある種の型を身につけた人間のみであるのは現実である。所謂自由人みたいな者も例外ではなく、大概は、懐疑の底が浅く型を繰り出すタイミングが速かったりしてびっくりする周囲を自分への畏敬か何かと勘違いする自信に満ちているだけである。
わたしは、道の追求というのは、登山のようなものである必要があると思う。登山をなにか高みにある理念への強制みたいにみる御仁は、たぶん登山をやったことがなく、麓で崇高さに酔っている人であろう。だから否定もするわけである。例えば、登山したことのない人間は例えば森敦の「月山」を理解しているとは思えない。確かに体験者の横暴としての意見であるが、多少は思うわな。。登山の経験とは、山にも拠るが、「月山」に描かれたような、壺中の天が折り重なるみたいな体験である。
わたしは毎朝駒ヶ岳眺めて育ったが、実際にその山に登ってみると、完全に麓にいた頃の遠近感が狂う体験をする。遠くのものが大きくなってゆき、次第にそれもわからなくなる。その中に入ってしまっているからだ。樹木がない地帯に入ると、改めて頂上だけゆがんで大きく見える。でそれもいずれはそのなかに入ってゆくので大きさは分からなくなる。で、とつぜん頂上でござる、という看板とか碑の横に立っている。寒かったり、そうでもなかったりする。麓の自分の家が見える気がする。見えないが。(シュトラウスの「アルプス交響曲」は登山の経験を描いたものだが、パノラマ的に引き延ばされて平面的になった描写で、登山は音楽では描くことはできないような気がする。どちらかというと、主題が折り重なって変形してゆくベートーベンの第5交響曲のほうが近いのかもしれない。)
道は、大きく見えたりしながら其の中に入り、結局自覚せずにそのなかを行為するみたいなもののような気がするのである。だから、道とは何かを山を眺めるように「見る」ことはできないし、だから説くことも出来ないのである。説くことは、逆に道とは関係ない、下山して雑踏のなかでもまれるようなニーチェの主人公みたいな目にあうことである。