ちょうど、「八月一三日」という日付のある、与謝野晶子の「台風」というエッセイは、清少納言の「野分」の感性と近代の「台風」のそれを比べている。そして結局、「戦争と云ふ怖しい台風」について語り始める。
近代の生活には科学が多く背景になつて居る「呂宋を経て紀伊の南岸に上陸し、日本の中部を横断して日本海に出で、更に朝鮮に上陸す」と気象台から電報で警戒せられる暴風雨は、どうしても「台風」と云ふ新しい学語で表はさなければ自分達に満足が出来ない
そんなもんかな――とも思う。いまでも田舎道を歩いてみると、「野分」というのがよく分かったりするから、与謝野晶子の思考は随分抽象的だと思う。戦争を台風と言うなんて。科学的と言えば寺田寅彦の「颱風雑俎」の方がよほど科学的である。科学者としての寺田は、かえって昔の記録から台風についての新たな発見をしようとしているみたいである。しかし、だからといって、寺田の方が文学的に偉いとは必ずしも言えないと思う。
与謝野晶子風の思考でありながら、台風のリアリズムに目覚めた作品として、わたくしが好きなのは梅崎春生の「無名颱風」であるが、これはもはや、インターネット掲示板での愉快な台風の実況にまで通じるところがある。梅崎というのは、「移動」を描く天才なのであるが、確かに台風も移動するからだ。これは人生とは違って、我々が乗って動いて居る幽霊みたいなもののことである。漱石は「胸裏の不穏」とか言っていた。
――今日は風が吹く。昨日も風が吹いた。この頃の天候は不穏である。しかし胸裏の不穏はこんなものではない。
――漱石「野分」
他の場所で「偉大なる理想を有せざる人の自由は堕落であります」と道也先生は言う。安吾の「堕落」よりこちらの方がまだリアリズムだと思う時代が来るとは思ってもみなかった。安吾の「堕落」にはどこか甘さがつきまとう。自由という堕落の底にあっては、自分のなかに非歴史的な、仮象としての無意識の発見がさまざまに行われるが、そこにはあまりに懐疑が少ない。