さても、あやしや。わが世とともに恐ろしと思ひしことの報いなめり。この世にて、かく思ひかけぬことにむかはりぬれば、後の世の罪も、すこし軽みなむや
柏木と女三の宮の子どもが生まれた。源氏は、これを「報い」だと思う。でも、こんな思いがけないことが起こったのだから、来世の罪は少し軽くなったかな、とか言うておる。
まず、これは「報い」ではない。若いどうしのほうがよかったので、おじ(い)さんの源氏が妻を寝取られただけである。次に、来世の罪が軽くなるかどうかであるが、それはない。重くもならないが、ただ源氏は死ぬだけである。考えてみると、源氏の臨終の章が欠落しているのは結局死んだら「無」であることを紫式部が語っているようで好感が持てる。
ロバート・ダーントンだったかが、フランス革命の前夜、三文文士たち(「どぶ川のルソー」)が生活のために書いていた貴族を性的に中傷する如き俗悪な文書が革命を用意したとか何とか書いていた。確かにいまでもネットの俗悪な文章がある種の大衆革命を成し遂げつつあるようにみえるので、そうかもしれないな、とは思う。例の展覧会の騒ぎを見ていると、慰安婦像や不敬?な展示などがある種の既得権益に見えている人々がいるということを示している気がする。そういう人々にとっては、作品たちが貴族的にみえていて、ある種の穏便さしか感じていないという――。すると、もしかしたら、我々は、もっともっと過激であったり、或いはパロディじみたおふざけをすることで「芸術」的でありうるというのか。
一面では、確かにそうであるようにみえるが、結局は凡庸なのではないか。それは起こりつつあるものに依存しており、本当は懐古的なのである。革命の予感は、上の源氏物語のように、反復がやぶれてゆく――高貴な男の人生の崩壊過程に於いてたしかにあるので、むしろ、諸行無常と言ってしまっている「平家物語」では革命は終わっているのではなかろうか。派手な戦いは、もう結論がでているときに盛んに戦われる。
いまの現象は、たぶん、80、90年代に考えられていたことの実現に過ぎない。わたくしは、今更気づいている連中よりも最初にあれこれ想像していた人たちを評価したい。