采采卷耳 不盈頃筐 嗟我懷人 寘彼周行
陟彼崔嵬 我馬壊潰 我姑酌彼金罍 維以不永懷
妻ははこべを積んでいる。夫は岩山に登って酒を飲む。妻はハコベを前にし、夫は馬が病み疲れるのを前にしている。馬とハコベを比べるとどことなく気が鬱々としてくるのは男のような気がするが、ハコベの軽さもまた、カゴに満たない感じと良く合っていて、妻の寄る辺ない気分をもりたてる。
思うに、彼らは離れているからそれぞれが異質な感情として描かれてちょうどいい感じの対照性になっている気がする。これを御真影みたいに枠に収めたがる我々はそこに馬やハコベを描けない貧困に陥る。国民が大谷さんとパートナーの写真を見たがるというのは、御真影を廃止したからだという意見がたぶんあるくらいだ(知らんけど)。そこで可能なのは、遠近法の破壊ぐらいである。大谷さん夫妻よりも背が低いのはもちろんのこととしてわたくしは細よりも少し小さいので、ここまでくると、庭の蛙なんかも遠近法でわたくしよりも小さく見えるが、実は、大谷さんより大きいかしれないと考えると謎の勝利感がある。――こんな感じである。
あとは、御真影の比較である。例えば、野球選手の妻と言えば落合信子さんをわたくしなんかは想起する。で、だめ男子達は大谷君の妻殿をながめて清い夢なんか見ていないで、「若い頃の博満は酒とカップラーメン中心の上に白米に駄菓子の粉末ジュースの素を掛けて食べるいい加減な食生活を送っていた」(ウィキペディア)みたいな現実を直視し、さっさと自分で何とかすべきなのである。――こんな感じである。あと、大谷夫妻の代わりに、「ビバリーヒルズ高校白書」のリゾーム男女関係を想起してもいいぞ。それが嫌らしすぎるのであれば、ブレンダとブランドンの兄妹が、第1話で、転校生の兄妹が登校初日、自分で車を運転してゆくシーンを想起するのでもよいと思われる。あと、兄貴の部屋にはゴジラの目覚ましみたいなのがあった気がするので、そいつを妹の顔の代わりにしてもよい。
二刀流なんかは、宮本武蔵でなければ、マルチタスクみたいなものであって、スポーツ選手にとっては結婚だってそのタスク的な感覚と無関係ではいられない。つまり、われわれのプライベートみたいなものが実際はプライベートではなくなっているのと同じだ。仕事とプライベートは、労働がくだらなければ、上のような対照性をつくらないのである。まだハコベや馬を歌うだけ、中国の古代はそうではなかったのだ。
確かに、仕事の内実をうまいこと対照性のアンサンブルみたいに考えて納得するひともいりゃ、仕事を数字に置き換えるべく、仕事の優先順位をつくることだけは命を賭けるタイプとかがいる。しかし、じぶんの仕事がいつも何を意味しているかを考えれば、例えば教育なんかもほとんどの場合なにがなんだかわからない実態だったと気付くはずで、業績とか入試の結果とかが何を示しているかだってほとんど訳が分からないものである。本当はそれが分かっているのは当然であるが、このことにあまりに怯えてるような国民から教師や親が輩出されてくるわけがない。仕事や教育をなにか感情の単位として単一物にしようというのが、あまりに窮屈だ。――しかし、一方で、それが分かったとして、なんで会って話せば人の真価が分かることになるのかはもっと分からない。それがあまりに恣意的であぶないから紙の試験が開発されてきているのだ。少なくとも面接より長い試行錯誤の歴史があり、様々な能力の綜合が試されるように工夫されているのである。そういえば、「葬送のフリーレン」で、最新話で、最終試験が面接だったみたいな場面があったらしく、面接試験もいいねみたいな意見があったみたいだが、我々は魔法使いでもエルフでもないのである。コミュニケーション能力とか言っている人が、どういうイメージを持っているのか分かろうというものだ。コミュニケーション能力があると思っている人の実際のコミュニケーションをみると、理屈なしで事態を自分だけ楽に通過しようというマインドに悩まずになれることを意味しているような気がする。つまり魔法で楽をするイメージなのである。
そういう人間が教育に携わる場合、どのような事が起きるかというと必ず目的が省力化なのである。例えば、インクルーシブみたいなことが課題になった時に、お互い違う人間なので尊重し合いましょうと「言わせる」教育になってしまう。これは意味がないだけでなく有害である。どうしたら尊重し合えるか上手いことコモンセンスつくったり規則きめたりするところまで実現してなんぼなのに、そこだけは教員の命令に頼ることになっている。で、命令の要求と、自分を尊重しろという、――二つの要求ばかりする人間が誕生するのである。ただの必然である。