★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

是禮也

2023-04-02 23:28:22 | 思想


子入太廟、毎事問。或曰、孰謂鄹人之子知禮乎。入太廟、毎事問。子聞之曰、是禮也。

孔子は太廟の祭式に際し、悉く経験者に尋ねておこなった。これをみてある人が「あの田舎者野郎が礼の先生と言えるのか、太廟ではなんでも人に聞いていたぜ」と貶した。先生はこれを聞いて「そういう行為が礼なのに」と言った。

古い共同体を旧態依然としたものだとみなして崩壊させてしまうと、われわれは単に孤立し、もっとやばい法の支配とか人の支配下に置かれてしまうものだ。平和としての革命は、儀式的なものが伝承されて漸進的に変容していくことで、突然起こったように見えるだけだ。だから、孔子は安寧のために古い習慣をしっかり伝え聞いて守ってから人による変容を待つ。誰かが単に伝統を知り尽くした形で所有すると、今度は恣意的な改造がおこなわれてしまう。前衛党のよく陥る傾向である。起こるのは、革命と反動である。フランス革命はそういうかんじで推移したようにみえるし、悪い例を世界に振りまいたと思う。本当は革命と反動によって弁証法が起こっていないのに、近代では、テクノロジーによって進歩が偽装される。

坂本龍一が亡くなった。彼の音楽は、いつも誰かの音楽を勉強して模倣的なものを残したかたちで成立していた。中学生の時に音楽の先生が「坂本は天才に見えるがたぶんどちらかというと勉強家で息を吸うように音楽の勉強をしたんだ、君もそうしなきゃ」と言ってたが、私はできなかった。惰眠をむさぼった。後悔は少ない方がよい。

他方、坂本がでてきた七〇年代後半は、紋切り型や機械性が再評価されて、それがあたかも「超近代」であるかのような雰囲気を漂わせていた。YMOは、近代でも前近代でもない「機械」の音によって、オリエンタリズムも日本の音楽の後進性も同時に撃つという、アイロニカルナ試みであったと思う。むろん、それが「超近代」として肯定的に見え商売になることも計算の上である。テクノロジーの進化がなにか「進歩」として振る舞ってしまう時代であった。坂本はそれでも何か先の音楽を探すために、手当たり次第の音楽と音を再点検していったようだ。

例えば、先日読んだところで言えば、山口拓夢氏の『短歌で読むベンヤミン』である。そこではベンヤミンの主張が短歌で表現されている。が、あまり短歌に見えないのだ。57577にして一生懸命よんでみないと短歌「として」よめない。和歌が57577であることはひとつの側面に過ぎないのである。ベンヤミンの精神をもって、同時に吾が短歌の文化の精神を十分に模倣しないとこういう試みはうまくいかない。坂本もそういうところを目指していた気がする。わたくしの私見では、坂本自身の音楽自体がそこに至ることは極めて難しかったんじゃないかと思う。――かえって、彼の活動は、西洋人の映画とともに、いわばオリエンタリズムとして機能するときに化け物じみた力を発揮した。

たとえば、わたしがずっと問題にしているのは、紋切り型の使用と関わる修辞的なものが「超近代」に至れるかという問題である。例えば、澁澤龍彦が「嘘の真実」というのを週刊朝日編『私の文章修行』に書いている。「嘘を書くな」という教師の言葉で小学生の頃作文がかけなくなったエピソードが紹介されていて、紋切型や仮面や非オリジナリティーの主張に進むわけだが、渋澤に「嘘を書くな」と言った教師はいいとこついていたのではないか。渋澤の主張はともかく、そこはかとなくいかがわしい嘘くささみたいなものは、いつも渋澤の欠点であり味なのである。だいたい、その教師のエピソードがほんとは嘘じゃねえかな。。そして、わたくしにとって、いつも渋澤の文章から認識も快も得がたい。その嘘くささは、和歌や能の嘘くささよりも嘘くさい感じがする。ここには、どこか孔子を「田舎者」と批判した人間にみられる蔑視がある気がするのである。それは文化的な階級意識といってもいいと思う。

テレビをみていたら、新たなインターナショナルスクールのNewsがあった。階級制度の権化たるインターナショナルスクールに対抗して、わたくしは、いわば、庭の蛙に論語を説くつもりである。あっちは学費900万、こちらは無料で庭の蠅を食い放題である。――そうはいっても、人畜の違いはいかんともし難いことも多い。――うちのウッドデッキに春のうんこをひりちらかしていった鳩共に告ぐ。天国の門は閉ざされ、お前たちはウンコ鳩に降格されたのである。


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