★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

三蔵は女怪と結婚すべし

2024-10-14 23:02:53 | 文学


三蔵想ふやう、我今此女怪に接禮もせず、物も喰ず居らば、必定我を害すべし。北上徒弟們未だ消息無ければ、身を遁るべき道なし。我且忍びて渠が機嫌を伺ふべしと、女怪に向ひて、「吾今女菩薩の誠心を感ず。貧僧は素浄の食物を用ふべし」 女怪三藏の詞を聞きて心の中大いに催喜び、一個の砂糖饅頭を把り二個に劈破て三歳に興ふ。三蔵是を把りて喰し、赤一箇の内饅頭を取り女怪に興ふ。女怪笑うて曰く「御弟怎麼ぞ饅頭を割らずして我に興ふるや」三蔵合掌して曰く「我原來桑門の身なり。那ぞ葷を破らんや」


ある女性研究者が「写真に修正いれるとか甘いわ、わしなんか染みを物理的に取ったで」とか言っていたのが印象に残っており、別にそう言われなきゃたいした内容ではないが、金と合理性を得ることはいいこととは限らんと思った。研究者?の言葉はかかる倍音みたいなものをすごく伴うので気を付けよう。思うに、庶民が三蔵に普通に同情するのに対し、かならずいいくらしをしている色気を放つ女怪なんかにわれわれは似ているのである。

現代の女傑と言えば、野村とか落合の嫁さんであろうが、――わたくしは落合のファンだったので、ロッテのユニフォームのひとはみんな落合にみえる現象が私にはあった。世界の大谷のファンがドラゴンズのユニフォームを見ただけで大谷と錯覚してつい応援し、にもかかわらず最下位になったドラゴンズとの差別化をはかり、ドジャースがユニフォームを変えるところまでがわたくしにはみえる。――それはともかく、落合家の様子をテレビとかネットで見ると、あらぶの豪邸みたいで、落合選手が女傑にとらわれた三蔵みたいにみえるから面白い。三蔵も思いきって女怪の誘惑につられて三蔵ならぬ三冠王になれたかもしれない。禁欲ばかりではなく、女傑からのプレッシャーの効果を三蔵みたいなタイプは舐めているのである。

このまえも、細がイスラムとユダヤはお寺の隣に神社みたいにすればいいんじゃないと言ってたが、こういう意見を世の政治家も言われているのかもしれない。男中心の政治じゃパワーバランスか戦争しか思いつかないのではあるまいか。

要領よく最小限やることをやってコミュニカティブにやりおえることをいいことのように言い、実際そのように動く男集団には、その実女傑的マネージャー的な人がおり仕事を完成させるために微調整に走り回る事が多い。そういう依存体質の男をコミュニケーション能力が高いと判断するやつも同類である。だから面接試験とかでコミュニケーション能力が高いですねみたいなことを判断するのは危険であって、所謂「*だけしてて事務能力がない」みたいな男みたいな人間(女性でも同様)がなぜかますます増える。不思議でも何でもないわけだ。信用すべき人間でないのは、ボスが替わったときに急にだらしなくなったり身内ネタを喋るようになったりする人間で、いざという時にたよりになるやつにもかなりそういう傾向が見られる。

早稲田と慶應の自意識過剰合戦とか、昔から馬鹿だな、なんだかな、とおもってみていたが、あれは田舎の別の丘の上に立ってる男子校ふたつが喧嘩しているようなもんだ。田舎の高校閥の争いの意地の張り合いを想像すれば納得できる。そしてときどき早慶戦みたいに丘の下で不良どもが一戦やらかして人心を鎮めてる。要するに、この二校は本質的に高校であって大学じゃねえのだ。男子だけでやってると、かように、大学というものはありえない。

村上春樹の主人公に限ったことではないが、engagement が責任と結びついた概念であることからの逃避が広くあり、自由が責任に結びつくことを意地でも避ける精神的な技術がこれでもかと発達している。これもマネージャーに依存しながらある種の男が群れたせいであろう。そりゃ責任を誰かに取らせて自由になりたいからである。


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