★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

孔子、悲しみの実践

2023-04-22 23:48:05 | 思想


齊景公問政於孔子。孔子對曰、君君、臣臣、父父、子子。公曰、善哉、信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾得而食諸。

以前、オードリー・タンのインタビュー記事を見て「おれと同じ考えだ」と思った、と述べていた企業のおじさんの記事を読んだ。こういうのを馬鹿にしてはいけない。選挙になると、えっこんなのが公約かよ中学生でも思いつくぞこれあと思われる公約を目撃するが、「俺の考えと同じだ」ということが選挙公約に書いてあることが、結構重要だという事態を保守系の政治を目指す方々はわかっているのではなかろうか。

しかし、かかる現象がよくわからない知者たちは――なぜ自分と他人が区別できないだけでなく、なぜ自分の方が先にそう思っていたのかわからない、と思うであろう。もっとも、こういうのは他自の区別をつけないということと平等化みたいなものの差異は案外つきにくいことを示しているのである。そんな馬鹿はホットケという意見もわかるが、わたしが言っているのは単なる現実である。その知者たちの思う「他者と自分」の区別、個の確立、意見に対する相対化と尊重みたいなものは、抽象的で具体的な意味合いが分からないし、根拠もよく分からない――つまり、生活上の理屈からは遠いのであった。

かかる現実に於いては、案外、身の程を知れみたいな儒教道徳が役に立つ。道徳的に正しいと言うより、単に役に立つのである。上の孔子の言では、君主、臣下、父親、子どもはそれぞれ自分自身であれ、そうでなければ食べ物がたくさんあっても安心して食えないよ、という感じで、君主制家父長制の道徳にみえるが、実際は、吉本隆明ではないが「関係の絶対性」というものがあるのだ。その絶対性を頭で否認することなど簡単だが、現実に変更することはすごく大変だし、究極的には殺人的な何かを伴う。だから出来ることは、その関係性の中の立場で「しっかりする」ことだ、と孔子は言っているように見える。実際、いまの我々の世界がそうであるように、広く身分制みたいなものが存在する場合は、そこここで人間がサボタージュを起こし、狡賢く自らの地位を上昇させようと動くようになるが、まさにそのことによって身分制が強化されてゆくのである。だから、むしろ、その社会で自由を得るためには、上昇を目指すのではなく、立場に留まって道徳的にしっかり生きることが重要な気がするのである。

だから、教育者は、教育者はそれ自身でしっかりすることが必要で、まちがっても政治に教育的機能を担ってもらおうなどと考えてはならない。同時に、政治は身の程を知り教育に手を出してはならない。

孔子は表舞台に立ちたいして活躍もせずに放浪に下った。中年になるとすごく怒りっぽくなるとか、世の中に対する怒りではち切れそうになると若い頃聞いていた。しかし、実際は、なんだろ、悲しみみたいなものの方が大きい。孔子もたぶんそうで、論語はおもったよりも攻撃的にクリティカルではない。政治に対する教育者として、現実的なことを相手を怒らせないように、こうでもない、ああでもないそこがいいよ、みたいな言い方そのものが中庸的になるようになっていたにちがいない。そこにあるのは怒りではなく、悲しみではないだろうか。いまのポリコレ的批評は、いずれ現実に復讐されて悲しい結末を迎えそうだ。そうしたときにようやく孔子みたいなひとが現れるであろう。


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