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かくありつつき絶えずは来れども、心のとくる世なきに、離れまさりつつ、来ては気色あしければ、『倒るるに立ち山』とたち帰るときもあり。
人間が倒れても立山は立っている――あたりまえじゃねえか……
立山はまだ直に見たことないからコロナがおさまったら見に行きたいものだ。
藻塩焼く煙の空にたちぬるはふすべやしつるくゆるおもひに
など、隣さかしらするまでふすべかはして、このごろはことと久しう見えず。
この歌を詠んだのはご近所さまらしいんだが、すごいことである。「塩を焼く煙が空に立ち上るごとし、そんな嫉妬の火が煙たいのでしょうよ。ご主人が早々と帰るのはさ」……。こんなことをいう人がいるのがすごい。あんたは読者かっ
確かに、いやな相手に「煙たい」と思うのは、比喩以上のものがある。本当にけ煙たいのである。同じようなところが反応している。火をおこすのは我々だ。初め火をおこして遊んでいて気分がいい。しかし余り近づきすぎると煙がむせることも出てくる。だいたい人間関係もそんな感じで、相手がへんな燃焼をおこすのをわかっていながら敢えて燃やすと、へんなものを吸い込むことになる。だめなやつにはおだてて火を付けるべきではない。
遂々猪が飛出しました。猪は全く勇しい獣でした。猪はほんとうにやっていって火をつけてしまいました。
みんなはびっくりして草むらに飛込み耳を固くふさぎました。耳ばかりでなく眼もふさいでしまいました。
しかし蝋燭はぽんともいわずに静かに燃えているばかりでした。
――新美南吉「赤い蝋燭」
こういうことは人間界ではあまりない。新美南吉の自意識はこういう話を作り出すのだが、赤い蝋燭だって、屈んで覗き込んでみれば、それなりに煙ったいものである。動物に限らず、比喩というものは、しばしばそういう自明の理を忘れさせる。蜻蛉さんがわすれているのは、この兼家というボンクラが付き合うにたる相手かということであった。ただの金持ちではないのか?