
五月ばかりなどに山里にありく、いとをかし。草葉も水もいと青く見えわたりたるに、上はつれなくて草生ひ茂りたるを、ながながとたたざまに行けば、下はえならざりける水の、深くはあらねど、人などのあゆむに走り上がりたる、いとをかし。
左右にある垣にあるものの枝などの、車の屋形などにさし入るを、急ぎてとらへて折らむとするほどに、ふと過ぎてはづれたるこそ、いと口惜しけれ。蓬の、車に押しひしがれたりけるが、輪の回りたるに、近ううちかかりたるもをかし。
昔、古典の先生が、平安朝の表現には全体的に動きがないね、と言っていたが、これなんか、イメージビデオみたいなスピード感がある場面である。水がほとばしりあがり、何かの枝が、車の中から捕まえようとして行き過ぎてしまう。こんな風景も面白いが、最後の「蓬が車に押しひしがれていたのが、車輪が回ってあがってくるときに、近くに引っかかっているのはおもしろいね」という記述が子どもっぽい視点で面白い。与謝野晶子の、
場末の寄席のさびしさは
夏の夜ながら秋げしき。
枯れた蓬の細茎を
風の吹くよな三味線に
曲弾の音のはらはらと
螽斯の雨が降りかかる。
これよりも、昭和のモダニズムをみるようなのが清少納言である。川端とは違うが、一種の「末期の眼」が清少納言にはある気がする。川端の「笑ふべきかな僕の世界観はマルキシズム所か唯物論にすら至らず、心霊科学の霧にさまよふ」(「嘘と逆」)とは自嘲に非ず。これこそがモダニズムの心性である。失意を味わった者はこういう空間に誰しも迷い込む。このなかで却ってモノの運動する姿が顕れてくることがある。近代で「虚無」という言葉が重要なのは、そういうモノを誘い込む状況があるからである。安部公房の「Sカルマ氏の犯罪」で、虚無がラクダやユルバン教授を飲み込む場面があるが、あれはSFではないのである。