いまからでも遅くはない。手塚治虫の国葬を、いや我が国に生きる全ての生物で葬式を出すのだ。いっそのこと虫たちだけでもいい。結局、生きとし生けるものを平等に、やおろずの神がー、とか生物多様性が~、とか言っているのは嘘で、初代首相とか、最長なんとかが好きなやつが多いのである。日本の文化も結局どうでもいいやつがおおいのだ。
そういえば、「鎌倉殿の13人」が激しい内ゲバ内戦をえがきながらさいごその最終的な原理をどう語るか、語らないかに注目している。毎週人が暗殺されるドラマをみながら、実際に人がころされるとあれなのがわれわれで、はやくドラマにしたがるというのが、――賴朝がドラマの中で木曽義高を殺しておいてのせりふ、――「天命ゾ」なのである。連合赤軍事件の幕府版が鎌倉幕府だとして、過程の総括ではなく最終決着としての総括をして頂くほかはない。
そういうときに、結局、みずからのなかから原理をでっちあげられないのが、われわれの知的体力のなさである。仏教でも神道でも近代の超克でもいいからやっておかないと次のような柔な戯作的精神の回帰で終わる。
――庭にいた雨蛙とオードリー・ヘップバーンと比べてどちらが細の顔に近いかと沈思黙考してみた結果、ヘップバーンに近いと言わざるを得ない。したがって、わたしはグレゴリー・ペックなのではないだろうか。
こんな具合である。だいたいいわゆる「日本回帰」みたいなのがだめなのは、手前がもともと日本にいた訳であり回帰しようがない、ということに気づいてないからだ。回帰前も回帰後も、自分の頭を呑み込んだようなどこかの亜空間にいるんだとおもうのだ。
大和朝廷の昔から、我々が象徴的権威的人物をいつも暗殺というかたちで排除せざるをえないのも、象徴をいじくることによって全体をいじくろうという、手っ取り早い怠惰な方法、というか作用的な手法をとっているためである。天皇制とは、その実、そういう作用を象徴し、しかもその天皇を暗殺しないことによって隠蔽しているような気がする。