★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

民草総批評家と怨霊

2024-01-04 23:00:53 | 文学


また、その頃、いとかしこき巫女侍りき。賀茂の若宮のつかせたまふとて、伏してのみものを申ししかば、「おち伏しのみこ」とぞ、世の人つけて侍りし。大入道殿に召して、もの問はせたまひけるに、いとかしこく申せば、さしあたりたること、過ぎにし方のことは、皆さいふことなれば、しか思し召しけるに、かなはせたまふことどもの出でくるままに、後々には、御装束奉り、御冠せさせたまひて、御膝に枕をせさせてぞ、ものは問はせたまひける。それに一事として、後後のこと申しあやまたざりけり。さやうに近く召し寄するに、いふがひなきほどのものにあらで、少しおもとほどのきはにてぞありける。

あるいは、巫女の存在に幻想を持っている現代人なんかは、最後に「話にならない身分ではなく貴族に仕える女房程度であった」という言い訳を奇妙に思うかもしれない。偉大な人はいつもおり、しかし、急激にその人が体現していた職業は没落もする。

例えば、小林秀雄=始祖、保田與重郞=異教の始祖、花田清輝=転向ファシストおじさん、吉本隆明=そこらのおじさん、柄谷行人=他者みたいな親父、蓮實重彦=一文が長げえ先生、宮台真司=言葉が荒い先輩、東浩紀=年賀状くれる友達、と順調に批評家達が民草としての若者に接近してきたわけだが、――もはや読者の年齢より下であるところの、妹や弟、赤ん坊としての批評家が必要であるきがするほどだ。

そうである、とっくにネット上で民草が批評家としてそうなっていた。

そういう意味では、――前にもいったけど、東浩紀氏のゲンロンが何がありがたいかといえば年賀状をくれるところなのだ。絶対これで救われている人がいる。批評家より友達が必要な時代になってしまったのだ。

ヴァレリーは「歴史と政治」のなかで、「ピープルというのは実際ミクスチャーという意味にしかならんよな」と言っている。そりゃそうだが、そこで止まっちゃいかんとおもうのだ。ヴァレリーはやさしすぎるせいか、民草の多様性を肯定するというところからなかなか離れられないのである。

そんなときに、以前我々に君臨していた親父的なものは、神や怨霊として回帰する。昨日は、福岡空港に雷神が降臨したらしい。九州だし道真公だと思うけど、道真公はときどき京都ぐらいには出張して清涼殿などを狙う。むかしだったら、ここ数日の末世的なあれを安倍元首相のなにかみたいな話になってるにちがいない。昔だって頭が悪かったわけじゃなくて、むしろ悪霊のせいにして話が極度に紛糾しないように――、いや親父的なものの代替物にしてたのかも知れない。道真とあらそった時平なんてどうみても大したやつではない。


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