★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

以木造るか、以金鋳るかして

2021-04-03 23:13:48 | 文学


又正く承し事の浅猿しかりしは、都に王と云人のましまして、若干の所領をふさげ、内裏・院の御所と云所の有て、馬より下る六借さよ。若王なくて叶まじき道理あらば、以木造るか、以金鋳るかして、生たる院、国王をば何方へも皆流し捨奉らばやと云し言の浅猿さよ。一人天下に横行するをば、武王是を恥しめりとこそ申候。況乎己が身申沙汰する事をも諛人あれば改て非を理になし、下として上を犯す科、事既に重畳せり。其罪を刑罰せられずは、天下の静謐何れの時をか期し候べき。早く彼等を討せられて、上杉・畠山を執権として、御幼稚の若御に天下を保たせ進せんと思召す御心の候はぬや。」と、言を尽し譬を引て様々に被申ければ、左兵衛督倩事の由を聞給て、げにもと覚る心著給にけり。是ぞ早仁和寺の六本杉の梢にて、所々の天狗共が又天下を乱らんと様々に計りし事の端よと覚へたる。

思うに、天狗やらなにやらと思い描いているからこそ、天皇を木や金で造りゃいいなどという言も紹介するきになるのである。もはや、天皇も足利たちも人間ではなくなっていた。三島由紀夫が言ったように、天皇が人間宣言したことの深刻さは、こういうところから明らかだ。天皇を人間にしてしまっては、逆にその人は人間の属性として、しかも社会制度上で神聖不可侵のものとなってしまう。明治維新の天皇というものがそもそもそういうものであったのだから、三島は戦前の天皇制を思い切り否定しているのだ。かえって、天皇を古典世界の神みたいにしておけば、木や金や天狗に通じる流動性の中にその存在が置かれ、馬鹿にすることも崇めることも自由自在となる。我々は天皇制から解放されることになる。

たしかにインテリのひねくれた逆説のようにも思えるが、古典世界を読んでいるかぎりではなんとなくリアリティがあるのだ。ただし、古典の世界が現実の昔の日本を必ずしも表象していないであろうことは気になる。

戦後、近代のためにも、神殺しが行われなければならなかったのだが、――むしろ、室町時代あたりにそういうルネッサンスをみる思想家が戦後にいたことは、三島由紀夫の上の意見と同時代的ではあった。最近、新しい天皇の地位はかなりあやふやなものだ。ここからどうなるか、わからない。

久松潜一の『日本文化の本質を語る』という本が昭和一三年に出ている。久松氏の戦時下はかなり評判が悪いが、読んでみると、やはりこれはまずかったという感じがする。氏の頭には、内から外を受けいれたり抱合するという図式しかない。日本が島で、周りからいろいろな物が流れてくるが、それを力として受け取る必要はない、餃子のように包んでいると考えるみたいな発想である。

われわれもこれを笑えない。いまだに、外部を他者として考えるか力として考えるか、みたいな発想が幅をきかせている。

 俳諧の趣味ですか、西洋には有りませんな。川柳といふやうなものは西洋の詩の中にもありますが、俳句趣味のものは詩の中にもないし、又それが詩の本質を形作つても居ない。日本獨特と言つていゝでせう。
 一體日本と西洋とは家屋の建築裝飾なぞからして違つて居るので、日本では短冊のやうな小さなものを掛けて置いても一の裝飾になるが、西洋のやうな大きな構造ではあんな小ぽけなものを置いても一向目に立たない。
 俳句に進歩はないでせう、唯變化するだけでせう。イクラ複雜にしたつて勸工場のやうにゴタゴタ並べたてたつて仕樣がない。日本の衣服が簡便である如く、日本の家屋が簡便である如く、俳句も亦簡便なものである。


――漱石「西洋にはない」


確かに、進歩をやめて変化に重点をおいただけでちょっと気が楽になることは確かである。漱石は、単に比較をしているだけで、それによって俳句の本質を規定するのをやめている。


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