★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

孝弟の道

2023-03-29 23:24:23 | 思想


有子曰。其人為也、孝弟而好犯上者、鮮矣。不好犯上而好作乱者、未之有也。君子務本、本立而道生、孝弟也者、其為仁之本與

孝の観念はあまりにも道徳化してしまっているため、感情的な反発を呼び起こすのだが、ここで述べられていることは、教養人(君子)がなにゆえか、孝弟を大事にする人たちで仁愛に溢れる状態であることが多いので、それが根本的な何かであるとしか思えなかったという感慨ではないだろうか。それはあくまで君子においての話である。君子というものは教養と経験に足を取られ、他人を忘れてしまいがちになるからである。そんなときに、父母なんかは、自分の本性を思い出す(この意識が「道」であろう)恰好の題材であり、それを無視する輩は、どうせいろいろなものを無視するような思い上がりに突き進んでしまう。父母を敬えみたいな道徳が教養と経験と化す場合には、かえって、父母を無視した「道」が必要になる筈である。

俳人で編集者の齋藤愼爾氏が亡くなった。氏には以前本をおくってもらった。先人たちがたくさんいなくなっていき、わたしも少しずついなくなっている。ここに「道」がある場合とは、わたしが齋藤氏に匹敵する仕事をしていた場合である。「道」はなく、先人が死ぬと大概の人は同時に死ぬだけである。

教員をやっていてよかったと思うのは、若い頃から、ルサンチマンや社会的環境やらジェンダーやらいろんな習った理屈がほとんどそのままでは使えないということに気づくことだ。簡単にはものをいえなくなったことはよかった。「道」は習った事柄にはない。つい私なんかは、学生に対して、欲望を基軸とした文学的なありようがあると考えてしまうが、――言い方難しいんだが、ルサンチマンなきルサンチマンみたいなものがあるのだ。たぶん、以前は、乱暴者に怒られるとかぶん殴られるかして消滅してたものもそこに含まれていて、いらだたせるものだ。が、そこらにも細い「道」がある。津村記久子とか、わたくしより7.8年若い作者たちには、そういう「道」を探す傾向がある。

文学部や教育学部なんかでは、**教室や領域の独立性があったところが多く、そこで社会教育を行っている場合が多かった。それは道徳の押しつけではなく、「道」の教育だったのである。人員削減でそれを崩壊させといて、大学は社会に役立ってないから、授業を社会性にあるものにしようみたいな言葉遊びのおかげでますます授業の内実がカオスみたいになっており、崩壊した独立性は、孤独による保身に変わった。これは、欲望によって破られるわけにはいかない。だから、エネルギー自体を節約しながら生きることになる。「コスパ」とか言っているのはその表現に過ぎない。


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