★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

小人而無忌憚也

2023-08-01 23:13:47 | 思想


仲尼曰、君子中庸。小人反中庸。君子之中庸也、君子而時中。小人之反中庸也、小人而無忌憚也。

「小人之反中庸也、小人而無忌憚也」、小人が中庸に反しているというのは、小人であるがゆえに忌み憚ることがないということなのである。

忌憚なきご意見をとか言うて、ほんとに忌憚なき意見を言ったりするのは小人なのである。忌憚ない態度というのは、意見そのものが遠慮がないものであることに限らない。君子は「時中す」ことが可能である。「時ニ」――ちょうどいいときに本質をつけるのであり、時の感覚に優れている。小人は、これができない。もっとも、時機を捉えるのに優れている人間はいつもいるが、彼が本質をとらえる人間であるとは限らない。むしろ、忌憚なき人間がそういう欲望としての運動神経に優れている場合だってある。だから、本質をとらえることは、イメージとして「中庸」であるような、冷静さと謙虚さをもつものとして、あえて定義づけが必要だったのではなかろうか。

例えば、目上に敬語使いましたという態度がなぜかトラブルが多く導く人を見ていると、「目上だから敬語を使っているので、下なら態度をでかくいたします」という態度になっている。その自身が、敬語の定義としては自分の行為は正解であると思っているからいつまでたっても改善されない。そもそも敬意が誰に対しても存在していないと、敬語はうまく成立しないことがわからないのである。この敬意は、たぶん「中」(=不偏不倚)の感覚である。しかし、この敬意の欠如はよくいるおかしい人?における現象ではないであろう。例えば、紫式部とか光源氏が悶々としているあれって、彼らが結局敬意がないのに敬語を使っているからじゃねえかなとも疑われるのである。そして、その「中」の欠如によって、じゃあ悶々としてちゃつまらないから敬語やめればいいじゃん、という形式的な解決策がでてくることで、かえって、敬語使えないやつは馬鹿かみたいなバックラッシュをも導くのである。かくして、敬語を強制する強い主張と、敬語を過剰に使う社会への嫌悪がお互いに対立しながら存在する馬鹿馬鹿しい事態となる。

むかしはチェスタトンはカトリックだけが余分みたいに考えていたが、あらためて著作集6をめくってみるとほんと面白い。聖者が大好きな彼はそれによって中庸を説いている気がする。


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