
所謂修身在正其心者、身有所忿嚏、則不得其正。有所恐懼、則不得其正。有所好楽、則不得其正。有所憂患、則不得其正。心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味。此謂修身在正其心。
わたしは、どことなく四書の中で『大学』が重視されることの悪影響を考えてしまうが、――「心」が心理によって雲らされたりその正常な働きは自明ではなく、心がないことによって、見えるものもみえず、きこえず、味もせずという状態があること、しかもそれは「身を修めるために心を正す」のような連結によって道徳化しておくべき、みたいな教えは教育的だとおもう。
楽器を演奏するときだって、心を込めて、みたいな指導はあり、考えてみると字義は何を言っているのかわからないが、心を込める感じが分かるときにはもうたいがいやり方は分かっている。感情を込めるのではない。感情はむしろ曲を曇らせる。
我々は、小学校に入る辺りからどんどん生の横溢によって感情的になってゆく。わたしの七不思議のひとつに、小学校に入った頃には、もうすでに私はなにか悟っているような気がしていたことがあげられる。思い上がっていたんだといえなくはないが、もしかしたら童心というものはそんなものかもしれない。親たちも、心はむしろ小学校に入ってなくなってゆくきがするものではなかろうか。死との出会いが重要なのは、生がただの横溢ではなくなるからである。
個々の言い合いに勝ちつづけるやつは最後に派手に負けるというの、わりと多くの庶民が知ることである。感情に従って論理をくみ上げて人に勝ってしまうひとの末路を知っているということだ。心はそういう認識にある。