★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

あさましうめづらかなることかぎりなし

2020-04-24 23:31:01 | 文学


この時のところに、子うむべきほどになりて、よき方えらびて、ひとつ車にはひのりて、一京ひびきつづきていと聞きにくきまでののしりて、この門の前よりしも渡るものか。


町の小路の女のところで子どもが生まれた。よい方角を選んで、ボンクラ兼家も牛車に同乗(ふつうこういうとき女と同乗はせんのじゃボケッ)、都じゅうに音を響き渡らせて聞くに堪えない騒ぎようである。ここまでですでにボンクラはオワットルやつなのであるが、しかも蜻蛉さんの家の前を通ってゆくではないか。直ちに牛車から落ちろよウンコ兼家。しかし、

ただ死ぬるものにもがなにあらむ、いみじう心憂し


と思うのは蜻蛉さんの方。ここにウンコボンクラ兼家から手紙が来た。

「このごろここにわづらはるることありて、えまゐらぬを、きのふなん平らかにものせらるめる。けがらひもやいむとてなん」
とぞある。あさましうめづらかなることかぎりなし。


なんと自分は出産で穢れたのでそちらに行っては迷惑かと思ったとか言っている。まさに「あさましうめづらかなることかぎりなし」(あきれ果てる程普通でないこと無限大)である。

すごい、こんな男もいたんだなあ、と思うが、――たしかに蜻蛉さんはもう触覚(トサカ)にきてしまっているのでこう見えているだけのことだ、ウンコボンクラみたいな男は案外普通にいたに決まっている。これをウンコボンクラではなく光り輝くいい匂いの男に変えれば光源氏となる。光る人も冷静に考えてみれば、ウンコボンクラがボウフラに見えるレベルの異常事態恋愛を繰り返している。しまいにゃ自分の気に入った蜻蛉さんを自分の家に集めて楽しむという映画「コレクター」もびっくりのサイコパスである。

恥かしかった。下手な歌みたいなものまで書いて、恥ずかしゅうございました。身も世も、あらぬ思いで、私は、すぐには返事も、できませんでした。
「姉さん、心配なさらなくても、いいのよ。」妹は、不思議にも落ちついて、崇高なくらいに美しく微笑していました。「姉さん、あの緑のリボンで結んであった手紙を見たのでしょう? あれは、ウソ。あたし、あんまり淋しいから、おととしの秋から、ひとりであんな手紙書いて、あたしに宛てて投函していたの。姉さん、ばかにしないでね。青春というものは、ずいぶん大事なものなのよ。あたし、病気になってから、それが、はっきりわかって来たの。ひとりで、自分あての手紙なんか書いてるなんて、汚い。あさましい。ばかだ。あたしは、ほんとうに男のかたと、大胆に遊べば、よかった。あたしのからだを、しっかり抱いてもらいたかった。姉さん、あたしは今までいちども、恋人どころか、よその男のかたと話してみたこともなかった。姉さんだって、そうなのね。姉さん、あたしたち間違っていた。お悧巧すぎた。ああ、死ぬなんて、いやだ。あたしの手が、指先が、髪が、可哀そう。死ぬなんて、いやだ。いやだ。」


――太宰治「葉桜と魔笛」


女の逆襲である。まことにうるさい。


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