★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

車窓と有徳

2023-04-12 23:51:00 | 思想


子曰、「有徳者必有言。有言者不必有徳。仁者必有勇。勇者不必有仁」。


有徳者の言うことは意味がある、しかし意味のあることを言う人が必ずしも有徳者とは限らない。仁者は必ず勇気を持っている、しかし勇気を持っている者が必ずしも仁者とは限らない。――経験的には、当たり前のことだが、こういうことをあえて言わなければならないのには、社会を成り立たせるためだ。今なら、意味のあることを論文、勇気を空気を読まない発言力や発信力みたいなものに置き換えて考えてみればよくわかる。しかし、これが何か評価のエビデンスになっているものだから、むしろ人格者・仁者ではない輩が、そのエビデンスをそろえようと思って私欲のためにガンバってしまう。そうすると、社会が崩壊する。エビデンスは個人や組織にだけ必要で、社会には必要ないからだ。社会の維持とは、エビデンスに表示出来ない複雑な働きかけが必要である。これが孔子の言う有徳や仁であると思う。

最近、学生の馬鹿笑いがキャンパスに溢れて日常が帰ってきた。これに対する様々な対応が有徳の行為である。これを単にコロナ禍との関係でデータをとり分析的に描き出すだけだと単に「有言」である。

ちなみに我々は、歩くと「考える」感じがするが、これは、所謂「思考は歩行だ」みたいなこととは違う。思考主体が移動していることが我々の「考える」ことそのものを安定に導く。我々が動いていた方が安定するのだ。バイクでも車でも自分は動いていないから「移動」していない。歩くと到着した部屋の姿もかなり違ってみえる。もうかなり研究があるように思うが、――明治期以来の、車窓からの風景の発見というのは、「移動」しないで風景が変わる面白さと奇妙さのことでもあった。そこで主観的なもののおわりのない動揺がはじまったのである。ネットで更にそれは加速しておかしくなっている。ネットの画面は「車窓」なのである。


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