
大學之道、在明明徳、在新民、在止於至善。
「大学」の冒頭である。大学で学ぶべきことは、ぼやっと煤けている我々のなかから徳を輝かせ、民衆を新たに輝いた状態に戻す、――つまり究極の善に留まらせること。それは結局政治学であり、温故知新的、保守的である。日本では、ここに煤にも魂ありみたいな肯定思想が入り込み、煤を含めたものを多様性と称して一宇の元に保守するみたいなかんじになりがちだ。だから、それへの反抗も、もっとひどい煤である、みたいな子供じみたものになる。そして天の徳を示す者は、ものすごく現実から浮き上がった感じになってしまう。
チャットなんとかで頭使わないようになると、グーグル検索の時もそうだったように、更に頭使う次の段階に進めなくて結局大学の後半の授業にはそもそもついていけんようになるのではないだろうか。。。レポートだけで評価するんじゃねえからな。発表とか試験とかがあるし、普通に何モノかが露呈するであろう。つまり、これからの我々の戦いは煤からダイヤモンドをつくるみたいな詐欺との戦いである。そのためにはより天の徳が何であるかをそれへ至るプロセスを含めて我々が認識しておく必要がある。
明徳を目指す――世直しを志向する人は、言い間違い、聞き間違えをはやめに修正していく必要がある。相手の間違いを修正するにはそのぐらいの覚悟は必要である。しかし大概はまったく逆で、大きな転向はするが、細かい修正は意地でも認めない傾向がある。これを続けていると、学校で教師の非常に小さいミスをあげつらって動物園のようになってしまうのと似たような事が起こる。何しろ煤けた状態を巻き込もうとする勢力にとって、本質は煤にしかないからだ。
おっさんたちのネットでの放言はどこかしらネット時代以前の感覚を引き摺っていて、梃子でも動かない煤けた現実にコップの水をなげる感覚なのかもしれない。そこで現れる戦いも、煤けた現実とは違った戦いの世界にすぎなかった。だから、明徳を示す「大学」的な空間にも思われたのである。一方、現実の良識が失われて逃げるようにネットに参入した明徳志向の人たちと違って、ネットが社会インフラである人たちにとって、無責任な放言は浸透力があるリアルなデマと同等である。やるんだったらそういうデマは一人一殺的な攻撃をしてつぶさないと煤けた現実を保てない。かくして、煤けた状態がネット空間では常態となる。