いみじう思ひのぼれど、心にしもかなはず、限りのあるものから、好き好きしき心つかはるな。いはけなくより、宮の内に生ひ出でて、身を心にまかせず、所狭く、いささかの事のあやまりもあらば、軽々しきそしりをや負はむと、つつみしだに、なほ好き好きしき咎を負ひて、世にはしたなめられき。
「あさきゆめみし」では、上の部分が省かれていた。本文の読者としては「おいっ」と思うところである。もっとも、大人は説教をしなければならぬときがあるのであった。夕霧はそのかいもあって、一途に唯一人の妻を……とは残念ながらならなかったが――夕霧は雲居の雁と結婚できてよかった。この小さな恋の物語は、物語に於いては、「こんなところで物語が上手く行き始めるわけはないわな」と思わせる効果があり、案の定、光源氏の人生は因果応報的寝取られ事件、臨終の場面省略(←違うか)といった悲劇に見舞われて行くのであった。
それにしても、ときどき本当に幼なじみと結婚してしまう人がいるが、ほぼお互いの人生の区別がつかないのではあるまいか。そうでなくても、我々はつきあいがあった人の人生をある程度は奪い取って来ているみたいで、ときどきそのあるはずのない記憶みたいなものにうなされる人もいると思うが、――光源氏なんかその点、よくも精神が分解しないものである。やはり、お母さんとの事情で、巨大なブラックホールみたいなものをかかえていて、そこにいろんな人生を投げ込んでいるのであろうか。わたくしは、いくら一夫多妻でもそんなうまくはいかないのではないかと思うのである。
ところで、今日は、京都アニメーションで放火による大量殺人事件があった。大事件である。問題は、こういう事件に対する意味づけである。昭和の時も平成の最初あたりの大事件も、意味づけを我々は誤った。上の多くの妻との関係と同じで、我々は事件に人生をある程度強く奪われるので、奪いかえすこちらの認識によって妙な意味付けになってしまったりするのであり、これはある程度不可避であるからである。意味づけは長く時間をかけてするものだということを自覚することが大切であるように思う。