坂口安吾の文才を感じさせる文章に、「篠笹の陰の顔」というのがある。昭和15年あたりに書かれていて、アテネフランセにともに通っていた、狂死した友人(高木)について書いたものである。左翼運動が盛んだったので、高木と安吾は屡々尋問されたらしい、そのときの様子がこう書かれている。
高木は何事も私にまかすといふ風があるのに、かういふ時だけは私を抑へて頻りに答弁するのである。その理由は私の答弁が無礼そのもので警官の反感をかひやすいからだといふのであるが、高木は小柄で色白のひよわな貴公子の風がありながら、音声が太く低くて、開き直つて喋る時は落着払つてゐて洵に不逞の感を与へる。代り栄えがしないのである。
ここで「無礼」とか「不逞の感」と言われているのは、発言の内容とかではなくて、人の発する何者かであって、――今日、韓国の大使を怒鳴りつけて「無礼だ」とか何とか言っていた外務大臣とは大きく違う。外務大臣は、韓国の主張自体が無礼だと言っているである。しかし、内容以前に無礼で不逞の輩であることを感じさせる人間はおり、我々の人間関係というのは、そんな内容以前的なことでほとんど決まっている。安吾は、狂気とかケモノとか言ってその果ての部分を示唆しようとしていて、なぜならそれは常識的には所謂「人間性」という枠からは外れているからである。しかし我々自体がそもそも我々の認識よりも大きいので外れているようにみえるだけだ。それが我々の人間どうしのあり方を決めている。
日本浪曼派なんかは、戦争やって日本が滅んでも、文化が語り継がれればいいと思っていたところがあると言う人はいる。それにしても滅びる覚悟はあまり感じられないが――。考えてみると、ギリシャもローマもいまは文化しか残っていないので、そんな滅び方もありうるとは思うのであるが、人間の滅び方は「平家物語」なんかが描くよりももっと惨めで嫌らしいものであろう。痕跡は残るのかもしれないのだが、人間が滅びるときには文化も一緒に滅びるに違いない。
最近の日本は人間の滅び方よりも文化の滅び方の方が速い。昨日の事件は、そんなことを象徴してしまっているようで恐ろしい。
発狂といつても日常の理性がなくなるだけで、突きつめた生き方の世界は続いてゐる。むしろ鋭くそれのみ冴えてゐるのである。一見支離滅裂な喚きでも、真意の通じる陰謀政治家が発狂してゐないと断言したのは当然で、ほかの家族は発狂と信じてゐた。これも亦自然である。
高木が狂死するとき、父親の陰謀政治家だけは息子の精神のあり方を直感できた。狂っていないと断言したのである。いまの政治家にはこういう鋭さもなくなっている。