★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

やりすぎ三国志

2012-09-13 09:22:55 | 文学


ドラマ「三国志」の第4部は「荊州争奪」で、「赤壁大戦」直後から呉の周瑜が死ぬまでであった。

ここでなんだか気の毒なまでマヌケに描かれているのが、周瑜と劉備であった。

孔明を中心に話をつくらにゃならんので、もはやドラマは頭脳戦を描く方向に舵を切っている。腕力でのし上がってきた方々、ならびに少しでも頭の悪い方々はことごとくバカにされているようである。曹操の後継者争いにおいても、頭よすぎの曹沖は、才を自慢すると人がどう思うか分からんガキだったので暗殺されたりしている。ガキだとはいえ、真に頭の良い奴は、自慢をしたりしないものである。そうすると、曹沖の家庭教師に可愛さあまって司馬懿をつけていた曹操の見通しもあまりよくなかったことになるのかもしれない。アホなふりしているだけの曹丕の頭の良さを見抜いているただ一人の男──司馬懿。これから孔明のライバルになるので持ち上げざるを得まい。それはともかく、この偏差値の高い魏の権力闘争に比べて、劉備などというただの傭兵隊長陣営の方は、孔明だけが頭がよい。さすがにこれでは不自然なので、第5部から龐統(でも容姿が悪くて酒癖が悪い)が加わるが……。

劉備は、周瑜が仕組んだ、孫権の妹との政略結婚を持ちかけられると、「自分はもう48歳、17歳と結婚(したいよ~)できません」とか言いつつ、呉にのこのこ(殺されに)出かけてしまう。あとを孔明に任す劉備。しかし劉備の「軍師の言いつけに背くな」といういいつけをいきなり破り、「兄者の死ぬことを願っている」と案の上の文句を孔明につけて呉に攻めこもうとする張飛と関羽。こいつら、この頭でよくここまで生き延びたな。美少女につられて呉に出かけてしまった劉備は、はじめは嫁に嫌われていたようだが、自慢の剣の技で嫁を魅了。周瑜は、彼女が男顔負けの武力大好き人間であることを忘れていたのである。周瑜はむきになって、国家予算を投入し、劉備を贅沢で堕落させる作戦に出る。が、而して見事に堕落しまくる劉備。視聴者が呆れはてているところで、孔明の知略によって劉備救出。孔明はあらかじめ劉備に付き従った趙雲に「困った時に開けなさい袋」を渡してあり、──すなわち、劉備が堕落し窮地に陥ることまで読んでいたらしいのだ。頭に来た周瑜は、他の土地を攻めるふりをして劉備を急襲するが、当然孔明に読まれており……、「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!」と意味不明な産児制限政策を打ち出し憤死する。

「三国志演義」の作者、ならびにドラマ「三国志」の制作者、明らかにやりすぎである。

とはいえ、徹底的に頭のよい奴を褒めているところはすっきりしていてよい。

公開授業は後悔授業2

2012-09-11 16:32:16 | 文学
研究や論文に追われ鈴虫さえ神経に障るような季節になりましたがみなさんいかがお過ごしですか──というのはまったく社交辞令である。この夏に堪った鬱憤を学生達が教育実習で立ち往生しているのをみて内心大爆笑しすっきりする季節になりましたがみなさんいかがお過ごしですか。

教育実習というのは、学生の指導をする先生はまったくもって災難としかいいようのない苦痛を味わうし、学生は「指導者」としての実力どころではなく、学力自体あまり生徒と変わらないことを自覚してショックを受ける非常に苦しいものである。よくメディア上で教育について偉そうなことを抜かしている御仁がいるが、一回教壇に立って立ち往生してみればよいのだ。こういうと語弊があるが──、極端にいえば、人間的に問題がある現役の教員の言うことはまあ聞くけれども、人間的によいと自分で思っている素人の言うことは一言だって聞かないのが生徒達である。教室への入って行き方や授業を定刻に開始することさえもすごく難しいことである。私は、大学での教育経験が中心だから、予想するしかないが、──そもそも、新卒の教員がまともに教室の秩序をつくりあげることができるまでには、だいたい5年以上はかかるのではなかろうか。ちょっと教育するのがおもしろくなってきたと思えるのが10年ぐらいか……。無論、はじめから教員に向いているような人間がいて、えらく授業がうまい奴もいるのであるが、その人が順調によい教員に育つかはまったく分からない、寧ろ将来は危険だとみなした方がよろしい。……といった具合であって、それに加えて、国が無責任に抽象的な文句で命令してくるわけわかんない目標に対応もせねばならず、襲いかかってくるそのときどきの日本社会の「空気」や「風潮」のなかでも何とかやっていかねばならない。教育実習も大変だが、運悪く教員になってしまった暁にはもっと酷い現実が待っているのだから大変だ。というわけで、学生諸君も教育実習で一喜一憂している場合ではないのであるが……

それはともかく、最近、公開授業をみていると、単なる作品の誤読が目立つようになってきた。これだって、誰もがおかすことであるが、年々誤読が顕わになってきているのが気になる。口で言うほど簡単なことではないが、「作品が読めていない者に教える資格はない」のである。それが最近、言語能力重視(←だいたいこれ言いたいことが分からん)の傾向や、生徒の主体的学びを「支援」するといった空言的コンセプトに後押しされて、教師が作品の一番重要なところを教え落としても、生徒が成長すればそれでまあよし、と無理矢理「考える」風潮が見られるような気がする。それは、ほんといえば、生徒の成長は結局のところよくわからんものなので、生徒がなんだか喜んで活動していることで教員が満足してしまう傾向を生む。主人の指令さえ理解できればよい属国の国民ならともかく、教員が国語を教えるというのは、きちんとやれば、先人が遺した知を不可避的に良くも悪くも受け渡してしまう営為である。作品が主で受け手は従である。この感覚が分からない人間は、なにかあるとすぐ対等なコミュニケーションとか言い出す。以前、文学作品なんて誰でも教えられるが討論を教えられる教員は少ないとか偉そうに言っていた社会学者がいたが、どちらも難しいしその二つは厳密に言えば別のもんじゃねえよ。生徒にとっての目標だとか──、本当はそれを目標にしていいか誰にも答えられないものを目標にしてしまうことによって、あるいは、作品の読解をねじ曲げてでも、その目標に従って着地させてしまっている授業さえあるのではなかろうか。私のみたところ、学生の力量不足により単純に誤読をやってしまった授業と、作品の読解が必ずしも結びつくとは限らない授業目標との整合性を図った結果、嘘を付かざるを得なかった授業とがある。前者と後者の比率はよく分からんが、この二つが並存している感じがする。あるいは、後者の隆盛によって、結局は前者に陥る学生が増えているのかもしれない。

三国志演義をより面白く

2012-09-08 16:58:00 | 文学


遅ればせながら読んだ。最後にベンヤミンの「創造的零点」が出てきたのにはびっくりした。井波氏の著作は、『中国的レトリックの伝統』で初めて触れた。影書房から出ていた。すなわち、井波氏の花×清輝についてのエッセイを読んだ米田卓史氏などの世話で出た本であった。大学生の私は、この本を手にとり、「『随筆三国志』のアカデミックバージョンか」と糞生意気にも思ったものである。

『三国志演義』は一気に読ませる本で、なんというか、学者のひとつのあり方を学ぶのにもいいかもしれない。沢山読み勉強して、一気に書くのである。あちこちで素朴すぎるなと自分で思っても、最後まで書ききってしまう。不満な部分は、次の本で書く。こういうあり方が現在どこまで通用するか分からないが、書くたびに腹痛で寝込んだりしている癖に大したことになってないわたくしのようなやり方よりは……。

ふたりのヒトラー

2012-09-07 16:01:54 | 思想


あまりのストレスで足が生えてしまったわたくし

「ヒトラー 最期の12日間」とか「アドルフの画集」といった作品は、基本的に啓蒙的な意味を持っているのであろう。日本ではあまりそうではないが、ヒトラーを普通の人間として把握すること自体が、啓蒙されなければ問題として存在を許されない状態があるからである。たぶん。ただ、問題はそう簡単ではなく、明らかに当時を知らない人間が多くなってきたことと関係があるに違いない。また、ヒトラーを反ユダヤ主義者の権化に祭り上げておかないと、世界にかなりの数居ると思われる反ユダヤ主義(者、ではない)的な人びとを抑圧出来ないという当為も、必要上存在してきたとも思われる。例えば、「スターウォーズ」のダースベーダーにしたところで、彼が普通の人間であることなど自明の理に過ぎず、だからこそことさらに明言してはならないものだったのである。問題は、罪と罰の問題であって、人間性の問題ではないからである。ヒトラーを「悪魔」と切って捨てることは、戦前戦後においては、そういわずにはいられないものであっても、自明の前提ではなかったはずである。たぶん、観念的に自明になったのは最近であって、だからこそ、その概念崩しが必要になってしまう訳である。そうだとすれば、悪人も人間でした、といった姿勢が、進歩とは限らない。啓蒙だからしょうがないかもしれないが、上の映画には、戦後必死に積み上げられてきた、ファシズムやヒトラーの研究、あるいは、当時の芸術運動と労働運動、ナショナリズムとの関係をさぐる研究は、あまり生かされていなかった気がする。

「アドルフの画集」は、第一次大戦の現実をくぐり抜けた者達が、芸術を現実(政治)運動として再生させる理念が当時あったことを強調していたように思う──だからこそ、若きヒトラーは画家として認められないことが事実として突きつけられても、それを政治運動へと観念的に昇華できたというわけで……。いや、そうではない、映画のなかでの若きヒトラーは、画家として何故かだめな自分の悲しみや怒りをそのまま演説の中で活かしていた、つまり、ほとんど彼の演説は「泣き怒る」体をなしていた。これは、あまりにも自意識過剰な側面を強調しすぎであったと思われる。そうすると、彼が考えていた「政治+芸術=力」という観念は、ただ導きの糸であったに過ぎないということであろうか。ことはたぶんそれほど単純ではなかったはずである。ファシズムの問題は、根無し草になった人間の不安から直接に導かれるものではないし、反ユダヤ主義の問題は、またそれとは別である。映画の製作者も無論それは分かっており、映画の結末で、ややトリッキーなことをやっていた……。これは映画の落とし前であって、現実は違うだろう。

「ヒトラー 最期の12日間」で面白かったのは、ベルリンのシェルターで追いつめられたヒトラーが「無能な将軍達をスターリンみたいにちゃんと粛正しとけば良かった」、「ドイツを守るために若者が死ぬのは当然である」、「ドイツ国民が今回滅びても、ドイツは残る」とか叫んでいたことである。たしかにトチ狂っているとも言える訳だが、彼の夢は歴史を超越した純粋アーリア人の住むドイツという夢なので、ユダヤ人の粛正だけでなく、消耗戦を嫌う現実的な軍人達や、いまある命を惜しむ不純な人間たちも滅びて当然という理屈はある意味彼にとっては当然なのである。そしてこの映画も、ヒトラーが自分を芸術家だと思っていたこととこの純粋志向を結びつけたがっていた。したがって、この程度の志向は、ヒトラーでなくても十分起こりうるから、観客は自分の内なるヒトラーに気付くという訳であろう。しかし、だからなんなのだ?卓越した人間は純粋だとでも言いたいのか?いかにも出世主義者の言い訳じみている。そもそも、芸術家でもヒトラーでもない(なりたくもない人びとがほとんであろうが)人間が、勝手に彼らの内面を推測してよいものであろうか。この映画は、晩年のヒトラーの秘書の回想録が原作であり、最後に彼女自身が画面に登場し「当時はいろんなことが見えなかった。しかししっかり見ようと思えば真実が見えたはずだ」と語っていた。この発言が悔恨か保身か、それは分からないが、しっかり見ても分からないものは分からないのではないか。世界では思いもかけないことが起こっていて、実際よく知っていると思っている近親者に関してもまったく同じことである。こういうことは、常に厳しく勉強していないとなかなか分かってこないことであって、半端に勉強したあと啓蒙ばかりやっているとそれが見えなくなってくる。そういう人間の末路は悲惨であり、すべてにおいて自分の見栄を優先し他人にいろいろな意味で暴力をふるうようになる。……思うに、こういうのは、ヒトラーみたいに現実の戦争や政治に忙しいやつよりは、暇な人間に起こる現象であるように思われるのであるが……。

正しい知恵──西原理×子

2012-09-04 03:31:48 | 思想


「正しくないけど役に立つ60のヒント」とあるが、「正しくないけど」という部分が正しくない。どう読んでも正しいことばかりである。「正しくないけど」と言ってしまうと、やはり「みんなが言う」「正しい」方向にヒヨる輩が増えるばかりである。「悪知恵」もおかしい。単に「知恵」でよい。「悪知恵」を働かしているのは、常に「みんなが言う」「正しさ」に従っている連中の方である。

ただ、そういう言い方をしないと、世間様のアホさ加減は懐柔できないという知恵を西原理恵子は持っているので、こうなったのであろう。さすがである。それが彼女の言う「悪知恵」である。

面白かったのは、自分が負け犬の時には、本当に負け犬や負け猫がよってくるという指摘。これは本当である。そういえば、昔、負け犬意識の塊であったわたくしの下宿や宿舎にも、顔色が悪い動物たちがよってきた。人間の方が本当にまずい状態の時は、ゴキブリや鼠さえも寄ってこない。彼らはどうみても弱ってないからなあ。寄ってくるのは、汚い猫や足を引きずる犬、喘息っぽい幼稚園児とかである。象の墓場みたいに、みんなで死のうというのであろうか。