★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

『はだしのゲン』は呪いの言葉をはくか

2012-09-01 23:13:42 | 思想


中沢啓治氏といえば『はだしのゲン』であるが、上のような作品もある。『はだしのゲン』にでてくるキャラクターが名前を変えてでてくるから面白い。表題作の「野球バカ」は、「巨人の星」がカマトトに見えるほどえぐい展開でびっくりする。さすがである。

よく言われていることであるが、『はだしのゲン』は、「原爆反対」の理念的漫画ではない。「原爆を落とした責任者や戦争を始めた責任者、ならびに調子こいて戦争に協力した国民を「殺しゃげたる」」と「言っている」漫画である。

また、そのすさまじい原爆当日の描写を読んでトラウマになっただのというて、学校(の図書館)を恨んでいる御仁もいるようだが、原爆のトラウマを作者だけでなく読者に与えることが、この作品のさしあたりの目的であった。まずは、宮台真司が言うように、トラウマの共有が政治や共同体成立の前提であり、その政治的狙いが何であろうとこの前提から逃げ回っている限り「戦後」は実は始まらなかったのだ。この漫画によって日本国民(笑)は、「原爆を落とされた後の国民」に初めて生長したのである。

その証拠にこの漫画の影響力は、時間をかけて、実際すさまじいものがあった。左翼の方々が最後の印籠として使うのはもちろん、2ちゃんねるの右の方に旋回している方々も、「ギギギ」とか「くやしいのう~、くやしいのう~」とか「おどりゃクソ森」、「こ、こいつはキチガイか」、等々の名言?を、彼らが思う非国民の方々に投げつけている。中沢啓治の漫画においては、主人公達が頭に来たらすぐ「狂ってる」、「殺したる」と「言う」わけで、――その「言う」性質のために、社会ではなく2ちゃんねるのようなコミュニティにこそその影響が大きく現れたのである。各話の最後に、夕陽に向かって去ってゆくゲン達がよく歌っている下ネタ系替え歌なんかも、2ちゃんねるの得意技である。ここまでくると、中沢啓治は2ちゃんねるの神といってよいかもしれない。中沢啓治がブルジョア左翼のように勝手に国民を代表をせずに、自らの感情をまんがに代表させたところある種の「国民」の感情の動きを結果的に代表してしまったところがあるのかもしれない。原爆は人間の処理出来る範囲を崩壊させていた。その意味では、社会を維持する偽善的な意味では、言表してはいけない面があったのだと思うが、人間の感情は様々な話題で代補しながら原爆に追いつこうとしてしまう。なかでも中沢の描く、朝鮮人との関係は何処か理念的に過ぎない。反差別であるに過ぎない、――ということは差別以外に内容がないということだ。非常に皮肉なことであるが、「はだしのゲン」は、原子爆弾を言表不可能なトラウマとして結果的に処理していた戦後の終わりでもあり、その意味で「偽善」としての戦後の終わりでもあった。つまり、それは――2ちゃんねる的なものの始まりでもある。

だいたい、普通に勉強しただけの人間に、軍事の問題や天皇制の問題が本当に政治的プランとして語れる訳はない。それは昔も今もそうなので、庶民はなにかあれば、そんな天下国家の話題に関してさえ、下ネタで盛り上がり、「クソ野郎」、「殺すぞ」とか口走ってしまうものなのである。ネット世界は、そういう反応ばかり起こしてしまう人間までブルジョア・デモクラット(あ、間違えた。でも、何だっけ?)の言論に参加しているつもりにさせてしまうからやっかいなだけであるが、もともと人間社会というものはそんなもんなのではなかろうか、そしてそこにしか可能性もないのではなかろうか。そういえば、内田樹氏が、呪いの言葉に溢れている日本を憂いていた(しかもその原因を競争原理の繁茂に求めていた)が、我々の住む世界は、競争原理がいかに教育に入り込もうとそうでなかろうと、もともと呪いの言葉でできあがっているのではなかろうか。競争原理を体得した人間は目立たないようにうまく立ち回っているだけだ。――ああ、そうか、内田氏は、中沢氏の漫画によくでてくる罵倒さえ禁じられた言論空間が我々を抑圧しているから、ネットでのそれは「呪い」だといっているのか。そう考えれば、確かにそんな気もしてくる。『はだしのゲン』のゲンには必ず口と同時に手を出す自由があった訳で、それが極めて重要だったのは言うまでもない。ゲンが暴力の代わりに絵を描いたり紋切り型のせりふでデモをやり始めたら物語は続かなくなってしまった。広島から東京に出て行ったゲンも、平成に入ってからは、ネットに呪いの言葉をカタカタと書いていたかもしれない。

注)上のような描き方では、国民とか庶民とかは無論、理念的な色彩を帯びているものである。デモの直接民主制的性格は、議会と違って汚い言葉でも議論できるというところかもしれない。

三木清的浪漫主義

2012-09-01 06:32:15 | 思想


昨日寝る間際に三木清の「浪漫主義の擡頭」を読んだ。昔、これを読んだ時には、「日本浪曼派」の「宣言」の解釈が、あまりに暴力的にみえたので、最後まで読まなかったのである。しかし、今回読んでみたら、三木が日本浪曼派の人びとの気分を非常に良く捉えているように思えてきた。三木のいうように、ロマン派の基本的性格が、夢想というよりも反抗にあるというのは、どうもその通りのような気がするのである。にもかかわらず、いまだに反抗的人間を自称する連中が、「夢から覚めよ」と人びとを啓蒙する気満々なのは、どうもね……。しかし、三木もそんな論法に論文の最後で陥っていた。しかも、三木のいうところの「現実との連関」とか「ミュトスの限定」とかを、「ネオヒューマニズム」とか「行動ヒューマニズム」とか標語にしてしまうところも最悪だ。「浪漫的アイロニーが新しい倫理によって支配されて行動的になることが必要」って、人間どう転ぶかわからんじゃないか。ここで三木の頭に、具体的な人間の姿が浮かんでいなさそうなところが、とても変だと思う。要するに、三木という人は、ロマン派の反抗的気分は分かるが、「行動」というのはその反抗的気分の外部にあると思っているのではなかろうか。

とはいえ、三木の文章というのは、我々に議論を呼び起こす観点を幾つも提出する力をまだ持っているようである。加えて、この人の人間技とは思えない仕事量はいったい何事であろうか。……総じて人間的にも不思議な人だったのであろう、彼に関して、彼の哲学よりも、彼の人間性について面白い思い出話をする人が多いのは興味深い現象のように思われる。