住の江の岸の松ふく秋風を頼めて 波のよるを待ちける
自然の擬人化というのはその実自然に対する盲目をもたらす。わたしはやはり「千曲川のスケッチ」の方を好む。
もっとも、波の気持ちを考える気分になっている人は、やはり波に接近してきた人なのかも知れない。今日、石原慎太郎が死んだが、彼の出世作は「太陽の季節」という、一見、アマテラスでも好きなのかな流石右翼かよ、と思わせておいて、海が好きな作者なのである。彼の作品からは、日本の陸上からの逃避が常に感じられる。ムリに逃避をやめたりすると、「処刑の部屋」みたいになって、地べたを這いずり回る羽目になるのである。よく考えてみたら、石原裕次郎も、ヨットに乗っていたときは颯爽としていたが、そのポジションを若大将に奪われたためか、地上で軍団を率いてパトカーをバク転させたりするような映像にばかり出演させられていた。わたしが視聴した範囲で言うと、なかなかよかったのは「黒部の太陽」で、水が関係していた。それにくらべて「太陽に吠えろ」とかは、太陽に吠えているのかどうかはわからないがとにかく体が動かない。もっとも、部下は動いていて、松田優作なんかが水に頼らぬ暴れぶりをみせて太陽族の上品さのようなものを吹き飛ばしてしまった。――当然である。松田優作は、太陽の國の出身ではなかったのだ。
できるなら、石原慎太郎は波のようにしていたかったのであろう。が、戦後は我々を陸地に閉じ込める時代だった。
三島由紀夫は、早稲田大学での講演で、「石原慎太郎なんかボディビルへの批判を一般市民の側から言っているわけ。彼のところにボディビル協会の会長の秘書が行って〈三島由紀夫がボディビルの悪口言うのやめてくれって言ってます〉というと、「ボディビルの筋肉なんか死んだ筋肉だカエレ」と言ったそうです。あいつも相当なこというもんで、まあ彼にコンプレックスがあるからでしょう」(記憶だとこんな感じ。。)と言って会場から笑いをとっていた。石原は本質的にマッチョというより、水のようになりたいのである。三島は違う。とにかく金閣を燃やしたい男である。水をぶっかけられたらたまったものではない。
おなじく右側みたいに把握されがちな、石原と三島は、あくまでこういう対立物であって、後年石原がいわゆる「暴走老人」になっていったのは、大江ではなく三島のような対立者がいなくなったからだと思われる。こういう対立は人が本質的な美質を保つ存在であるために非常に重要なのである。三島は、その自衛隊への殴り込みに象徴されるように、火(間違えた「非」)政治的な男で、「政治じゃないんだ、むしろ刀が重要だ」みたいな思想を実現したがっていたから、行動に出た。石原はおそらくその逆をいこうとして例えば国会で「寄らば切るぞ」としゃべり続けるような「政治」をやろうとしているのである。
彼の水への執着がついには、島を買うぞという発言になって飛び出したことは周知の事実だ。
しかしそれにしても、――確かに、江藤淳が言うように「作家は行動する」のが戦後の時代であるといっても、なんとも元気な御仁であった。
日本の戦後の秩序は、ある意味では老人によって固められたでしょう。なんだか、青年が戦後の日本を作ったという感じはしないですね。現代の日本は、非常に老いぼれてしまった感じで、その点、明治とたいへんに違う感じがするのです。
――三島由紀夫「青年、今と昔」
青年としての反逆が、戦後の一大テーマであったのは、こういうなんだかおおざっぱな認識に支えられている。「第二の青春」にしても「遅れてきた青年」にしても、自分のファクトをちゃんとみろよという感じであるが、確かに属国に住んでいる屈辱はどこに向かって暴走するか分からないものではある。結果、三島に限らず、石原も大江すらも老い方がわからなくなってしまった。しかも「若」くして有名人になった彼らの老いへの拒否はまた独特なレベルだったのであろうという気もする。
そもそも老いという現象が、ますます、科学的にお餅みたいに引き延ばされてわけわからなくなっていて、石原への過剰な讃美と拒絶反応は、我々が生き方が分からなくなっていることの現れかもしれない。太宰治の「人間失格」の最後なんてずるいよな、急に老けさせたりしてさ。。生き恥をもっと晒さなければならなかったのが戦後なのに。石原なんて「人間失格」以降の「人間失格」をゾンビ的に元気にやろうという感じだったのだと思う。我々は忘れてしまったが、戦後というのは、こういう狂気のような虚無感から出立している。それを忘れて、復興を成し遂げたふりをする欺瞞を文学者たちは許せなかった。しかしまあ、属国に住んでいようといまいと、みんないろいろと考えて生きてきたのであって、結局、石原を筆頭にかなり思い上がっていたと言う他はない。数々の差別的発言は、差別心というより思い上がりから来ている。――日本人の差別というものはそういうものである。
この前亡くなった水島新司なんかはよく分かっていたのではないか。技術を身につけた人間は情況がどうであろうと思い上がっていようとなんとかしてしまうものだと。50代のピッチャーがプロで活躍したり、ずっと二日酔いでも2000本安打は可能だ。一番スゴイのは、「ドカベン」の山田で、なんと記憶喪失でホームランを打っている。――これでゆくと、日本人が敗戦もファシズムも忘れてしまっても、なんだかしらないうちに経済復興を成し遂げるのではあるまいか。それはそれでゾンビであるが。