田んぼの都
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
荘周と蝶には区別がある。同じものではない。物化は変化ですらない。世界を切断するように物化は起こる。突然蝶や人間があらわれる。それを眺める私のようなものはある。しかし物化が妄想や夢で起こってないとはいえない。経験を常に過去として経験する私はそれを確かめることができないからである。
こういうことに比べれば、AIの問題なんかは、下村寅太郎が昔いっていたように、我々が機械を自身のオルガノンとした結果起こった身体の巨大化に過ぎない。だから、AIを語る人間もどことなく大きいことを言ってみたくなる。それだけではない。最近、こういう記事もあって話題になっていた。
AI成果物が急増したことで「AI生成コンテンツをAIが学習するループ」が発生し「モデルの崩壊」が起きつつあると研究者が警告
AIが自分の生成物を学習しそれを学んだ人間が彼らに似てくる。やはり、AI氏も学校行ってるうちに劇的に頭がわるくなってゆくおれたちと一緒なのか。チャットGPTは、質問と回答の継続が知恵を生む(つまり「話せばわかる」)みたいな弁証法以前の発想である。今日は、自衛官候補生が発砲して人が死ぬ事件があったが、これは物化のようなものだ。これに対して「話せばわかる」みたいなのも、悪人は機械的に殺せばよいといつも思ってしまうのが人間である。
どれだけ時間をかければ我々は下村の「超克そのもの」に目を向けるようになるのであろう。一つの道は孤独であるが、それは屡々悲惨である。
孟子曰、舜發於畎畒之中、傳説擧於版築之閒、膠鬲擧於魚鹽之中、管夷吾擧於士、孫叔敖擧於海、百里奚擧於市、故天將降大任於是人也、必先苦其心志、勞其筋骨、餓其體膚、空乏其身行、拂亂其所爲、所以動心忍性、曾増其所不能、人恒過、然後能改、困於心、衡於慮、而後作、徴於色、發於聲、而後喩、入則無法家拂士、出則無敵國外患者、國恒亡、然後知生於憂患而死於安樂也。
天は試練を与える。舜も傳説も田んぼを耕したり土木工事をしていたときに見出された。むしろ重大な仕事をすべきひとは試練を多く与えられ、まともな国家もいろんな問題に悩まされるからこそ滅びないんだと孟子は言う。
まるで、勉強をさせようとガンバル教師や親みたいな意見である。これがうまくいかないと、実はその苦労は将来の役に立つ、みたいな子どもでも嘘と分かる理屈を持ち出す。なにか将来が朦朧として現在の行為すらも朦朧に見えてきたイメージ豊かないい子ちゃんだけがこれに欺される。
だいたい仕事がうまくいかなかったり苦しんだりするのは学校でその準備をしなかったからではない。世の中根本的に悲惨で、そんなに甘くないだけなのだ。学校ごときで何をやってもだいたいうまくはいかないのである。
なにか日本の風物詩になってきたが、――あの教科はいらんとかあれはいらんみたいな議論である。先日も、どっかの議員が古文漢文やめて金融だかなんだかとか言ってたし、平凡社百科事典は時代遅れみたいな発言が炎上していた。世の中うまくいかないのはわかるが、それがなんで古文漢文をやっていることに求められるのだ。おまえさんがた大して古文漢文そもそもやってなかっただろが。国語は勉強しなくてもだいたいできたから?とかいうて、ほんとはなんか意味が分からなくなって退屈とか言ってただけじゃねえか。
現実は、そんなものなのであるが、――実際、教科を世の中の多様性に見立てるみたいなことをしたいならば、それでもいい。わたくしは人文系にありがちなそいういう議論も結局あまり意味はないような気がする。勉強で、そのような多様性みたいなところにたどり着くのは、中途半端な優等生に期待するしかない。自分が出来ない経験をして、教科に対する他者性を経験するからだ。しかし、かれらは大概、出来なかった教科を強制された恨みを抱くに過ぎない。一方で、ときどき大学入試まで受験に必要な教科すべてが得意でしたみたいな人が、あの教科はいらんかったな、みたいな主張を始めるのは興味深い。苦手なものを強制された恨みだけでは生起する不要論を説明できないのだ。考えてみると、全部できましたみたいな人は、教科と自分の関係に悩んだことがあまりないのかもしれない。つまり、どうしようもなく勉強そのものが苦手だった人に近いのであろう。
やはり、多様性ではなく、その分野に宿る魂と輝きそのものだけが根拠になりうるのである。だいたい、いま古い家に転がっている、平凡社の百科事典とか、円本の文学全集でもいいし、原敬日記全巻でもなんでもいいんだが、戦争や一家離散で苦労したプロレタリアートの爺さん婆さんが必死こいて買ったものだ。けなすことは断じてゆるされぬ。役に立ってなくてもそこには歴史という魂が宿っているのである。
だいたい、古文漢文が役に立たないのは単なるデマなのである。明治時代、孟子は駄目国体に合わぬ紫式部はまだまだ地獄から出てこられぬみたいなことを言ってたひとはいたわけであって、古文漢文を嫌う人の中には、こういう輩が混じっていると考えた方がよいと思う。単に役に立たぬ教養は要らぬと言っているわけではないのだ。四書五経なんて役に立たないどころか、異常なほど馬鹿みたいに政治的・実践的であって、古文なんかアニメのネタの宝庫であまりに役に立ちすぎている。面白すぎて劇薬なので、つねに近代の学校ではイケナイもの扱いになっていたに過ぎぬ。人間があまりに進歩がない変態であることがバレるのがこわいというのもあるかもしれない。要するに、総じて、進歩を神とする文明開化のモードからいつまでたっても抜けられない社会と学校の安寧秩序の問題に過ぎない。
わたくしは、道徳教育で普通に「三教指帰」を使うべきだとおもってるが、心配なのは空海の表現は普通に知的ななまめかさや快感に誘うところがあるので、授業中に法悦状態になるやつがいるかもしれないということである。真の知というのは恐ろしいもので、まあ昔、柄谷行人の「隠喩としての建築」で昇天したという知り合いがいたが、昇天じたいはどうでもいい。どうみても、たいがいの教師を凌駕する優等生に決まっている。天下国家のために必要な人材であろう。なにしろ天に昇る気があるほどやる気があるのである。
国語から、毒気を抜いてしまうのは題材の面でもそうなのであるが、方法論においても毒気を抜こうとしている。例えば、国語でむかしよくやってた「要約」というのは、たんに短くまとめることじゃなくて、大学入試で「どういうことか」と聞いてくるものに近い。しかしこれを「メタ認知」とかかっこつけてるうちは出来るようにはならないんじゃねえかな。「メタ」といいつつ別の認識(知識)に置き換わっちゃうだけで。確かに、昔からこういうことが苦手な傾向は文化的にもあって、訓詁注釈は「どういうことか」の前段階を厳密に踏み続けてしまう事態でもあるかもしれない。そして、それがあまりにも停滞的でめんどうなに感じられるので、いきなり文章の外部の「文脈」の把握(メタ認知。。)とやらに跳んでしまう。ジェンダーや下部構造みたいな概念がそれにあたることがあるのは言うまでもなし。こういうえせメタ認知の横溢によって、われわれは文章や現実が、結局「どういうこと」かを観察して表現する力がどんどんなくなってしまうのである。
かように、あまりにも我々が奴隷化しているので、むろんみんなやる気がない。子どもたちもやる気がない。やる気がないというのは、物事や人から遠ざかると言うことである。だから、それを人間関係や協同性と捉えてなんとかしたい人たちがあらわれ、学校なんかにはたくさんいるわけである。その動きと歩調をあわせて、「ケア」的な倫理が社会からも要請されてきている。よって、学校現場で、配慮しなきゃいけない事柄は増える一方のように思われるわけだ。昔にくらべて本当にそうなっているのかは研究したことがないから分からないが――はっきりしているのは、むかしから児童生徒のなかに「配慮係」みたいなよく気がつきすぎるやさしい子がいて、自分の勉強などを犠牲にして尻ぬぐいをしているうちに疲弊してゆく――そんな現実である。配慮の時代以前に、配慮ばかりやらされている人間は配慮されていない。教師のほうも、よく気がつくよい子扱いにして、その実、その子が集団内で奴隷みたいになっているのを放置しがちなのだ。以前だと、それを徐々に同級生がなんとかするみたいなことが起こっていたように思うが、最近は大学生みても誰も動かない傾向がある。意地でもケアする側にまわらない傾向である。これは学生からはっきり聞いたことあるが、「もう家事をするお母さん役はやらないようになってんじゃないか」と。でも君たちは実際に誰かにやらせがちだろ、と言ったら彼は黙っちゃったが、――子どもがヤングケアラーになってしまった場合の悲惨さが垣間見られた気がした。「ケア」する倫理には、イメージが不在なのである。むかしは辛うじて母親的なものがそれに当たっていた。それがなく、代替するものがない場合には、ただの奴隷労働だ。たしかに、儒教は親子道徳はそのことを示唆していたのかも知れない。
五霸、桓公爲盛、葵丘之會、諸侯束、牲載書、而不歃血、初命曰、誅不孝、無易樹子、無以妾爲妻、再命曰、尊賢育才、以彰有德、三命曰、敬老慈幼、無忘賓旅、四命曰、士無世官、官事無攝、取士必得、無專殺大夫、五命曰、無曲防、無遏糴、無有封而不吿、曰、凡我同盟之人、既盟之後、言歸于好、今之諸侯、皆犯此五禁、故曰、今之諸侯、五霸之罪人也。
盟約というものを結ばねばならぬ状況になってはじめて我々は第一条・三条にあるような家庭内の倫理を問題にすることが出来るのだ。個人の倫理的動揺は抑制されなければならないからである。しかし、結局これは盟約が盟約に過ぎず、どこからほころびが出てくるかわからない弱さからもたらされる発想であるように思われる。
我々は、我々自身の弱さを感覚として感じることを避けたいのだ。だから物語や法律に頼りだす。AIで何か新しいものを作り出したいという欲望は基本的に弱さから来ている。――そんなことを考えていたら、手塚治虫の『ブラックジャック』の新作をAIで作ることに決めましたみたいなニュースが入った。手塚治虫もなめられたものだ。彼がディズニーその他の文化的流用を続けながら独創性を持っていたのは、彼の経験した怨念のような感覚の集合だったと思う。彼は三島由紀夫に近いのである。面白いのは、彼の息子がこのプロジェクトに担ぎ出され、父親はこういう試みこそやりたかった可能性があると言わされていた。確かに手塚の漫画は記号的だから、物語やアイディアが重要であったようにみえる。だから宮谷一彦や鳥山明以上に絵さえそこそこきちんと動けば、あとは手塚になるだろうということになるのかもしれない。
手塚治虫の「ブラックジャック」新作をAIにつくらせるとかで、それは新作とは言わねえよというのは置いといて、あれなんだろうな、ブラックジャックが執刀した体からブッダが生えたりアッチョンプリケの人の額から仏が出たり、ブラックジャックのお尻が兎のそれになったついでにアドルフに告げたり、といった、出来の悪い大学サークルのあれみたいになりそうだから、もういっそのこと、ベルセルクとかジョジョの奇妙な冒険をAI手塚に書かせるならば、ぜんぶ4頁ぐらいで終わるであろう。
こういう想像は我々の弱さのなせる技だ。しかし、優れた作者は、作品のなかに、まだ書いていないビジョンみたいなものも描いている。それは、のちの作者たちに遺伝するものであるが、それは後の作者たちが実現しないと何なのかは分からない。ましてAIのような人間の良心で縛り付けるロボットにはそれはなさそうである。さっさと手塚のクローンをつくったほうがよいのかもしれないが、それでも駄目なのである。
吉川英治の何がイヤて「春風駘蕩といったような大人風な好々爺」とか平気で書いちゃうところだな、なんか鍵盤をパーで叩いたような表現だよ。是に比べると太宰は「「あいあい、」と女房は春風駘蕩たる面持で」とか響きよし。この響きは、のちのライトノベルの作者たちによって実現した。感情はその表出主体に属している。罵倒が自らの正当性への確信に支えられているという説がよくあるが、そう言う人って怒ったことないのかな。正当性への確信は、その感情と衝突した者に表出されるものだ。
学生の頃、黒澤明の「まあだだよ」を観てなんかすごく嫌悪感があった。慕われる先生というのがあまり好きじゃなかったし内田百閒もあまり好きじゃなかった。いま観るとよいかもしれんが、――要するに、わたしは、内田百閒と弟子たちが案外コミュニケーション出来ていて、彼らが圓い意味の塊に見えたのである。それは一種のクローンたちの群れであり、AIが出鱈目なことを言い出したほうが面白いかも知れない。
そういえば、中国のAIが「あなたにとって(習近平国家主席の唱える)中国の夢は何か」と聞かれて「米国への移住」と答えた数年前の事件、――にたようなジョークが「スターリンジョーク」にあったから、案外AIとしては共産主義国家への愛情表現としてのジョークの模倣だったかもしれないのだ。もはや人間のほうがユーモアすら解せないのはありうる話だ。太宰治を読んでも、当時の臣民たちはAIよりもロボット的であったのである。
任人有問屋廬子曰、禮與食孰重、曰、禮重、色與禮孰重、曰、禮重、曰、以禮食則飢而死、不以禮食則得食、必以禮乎、親迎則不得妻、不親迎則得妻、必親迎乎、屋廬子不能對、明日之鄒以告孟子、孟子曰、於答是也何有、不揣其本而齊其末、方寸之木、可使高於岑樓、金重於羽者、豈謂一鉤金與一輿羽之謂哉、取食之重者與禮之輕者而比之、奚翅食重、取色之重者與禮之輕者而比之、奚翅色重、往應之曰、紾兄之臂而奪之食則得食、不紾則不得食、則將紾之乎、踰東家牆而摟其處子則得妻、不摟則不得妻、則將摟之乎。
礼と食、女色と礼、どっちが重要だろうみたいな問の無意味さを言った箇所。そのときどきで大事なものは決まっているのに、――例えば飢え死にしかけている場合に礼を、結婚しなければならないときに礼を持ち出すみたいなことは、現実にはそもそも滅多にありえない。われわれの心は何か必要なときがあるときなら尚更、このままではよくないみたいな感覚が働くのである。それが、なにもしていない時点では二者選択の問題にみえる。
しかし、そんなことはその実わかりきったことだ。にもかかわらず、この二者択一への意識が道徳意識というものをつくるのである。そして我々の生の必要性における意識は、つねにそんな二者択一や道徳への抵抗である。きちんと確かめたわけではないが、日本語のネットで、四書五経の方はけっこう感想とか私的口語訳があるが、日本の和歌や小説に関しては八犬伝レベルでもあまりないし、有名古典しか人気がない気がする。面白い作品がたくさんあるのにもったいないわれわれはそもそも自分の姿を見たくないのだ、とかいうてるとわしもついに宣長化しそうであるが――実際、抵抗感よりも二者択一と道徳を弄んでいた方が、いつまでも出発点でうろうろしていられるのだ。
前にも書いたが、百日草は一度庭に種を蒔いたら最後、しらんうちに種をまき散らし、他の雑草を圧する勢いで増え続ける。この方たち、もしかして雑草ではなかろうか。我々に必要なのは、この勢いであるかもしれない。80年代のポストモダンの雰囲気を代表する、蓮實重彦と柄谷行人は、上の抵抗において独特であった。わたくしが想起するのは、野球に対する姿勢で、蓮實重彦はたぶん草野なんとかとかいうペンネームで野球評論を書いていた。燃え広がる饒舌という感じの文章だった気がする。これに対して、柄谷は、万年ドベの阪神タイガースに批評を喩えていた気がする。考えてみると、前者は色、後者は貧困(食)に立脚していたのであった。
孟子曰、牛山之木嘗美矣、以其郊於大國也、斧斤伐之、可以爲美乎、是其日夜之所息、雨露之所潤、非無萠蘗之生焉、牛羊又從而牧之、是以若彼濯濯也、人見其濯濯也、以爲未嘗有材焉、此豈山之性也哉、雖存乎人者、豈無仁義之心哉、其所以放其良心者、亦猶斧斤之於木也、旦旦而伐之、可以焉美乎、其日夜之所息、平旦之氣、其好惡與人相近也者幾希、則其旦晝之所焉、有梏亡之矣、梏之反覆、則其夜氣不足以存、夜氣不足以存、則其違禽獸不遠矣、人見其禽獸也、而以爲未嘗有才焉者、是豈人之情也哉、故苟得其養、無物不長、苟失其養、無物不消、孔子曰操則存、舎則亡、出入無時、莫知其郷、惟心之謂與。
孟子曰く、牛山の樹木は美しく茂っていた。しかし皆で樹木を伐採したので美しくなくなった。牛や羊の放牧によってますますはげ山となり、人々は元の姿を忘れてしまうんだが、果たしてこの姿はこの山の本性であろうか。仁義の心も誰かが伐ってしまっているからなくなってしまうんだ。夜明けに澄んでいた心も、日中の所業が良心に枷をつけて縛ってしまう、これを繰り返していりゃ良心はもともとなかったかの如く、禽獣だ、と。
孟子は、伐採と放牧の違いこそ書き込んでいるが、どうして生えてきたものを伐ると良心がなかったごとくなってしまうのかは、あまりちゃんと説明しているとは言えないと思う。それに、夜明けには心が澄んでいる前提はおかしいな。。。
こういう二元論的な見方は、教育から人為的なものを取り去ればよいと考えたり、逆に、人の行為や思考の複雑なプロセスに対して適切に介入・支援できると考えたりする容易さに繋がっているのではなかろうか。山本七平の著作を読み直している余裕がないけれども、「空気を読む」みたいな言い方が流行してから、法などに基づいた権利を守る行動の前に、存在していないとそもそも人間社会としてうまくいかない細やかな気の使いようの必要性が、どっかに吹き飛んでしまった。当たり前だが、昔から同調圧力や空気だけで共同性は成り立っていたのではない。したがって、崩壊したそれを復活させようとして『協働』や『チームなんとか』というスローガンの放つ「空気」で強制しようとしても成り立たつはずがない。個人を成り立たせるための集団内での気の使いようが協同性には必要なのであって、それなしにロボットみたいに集合だけしてても動かない。軍隊ですらそうだったはずである。
教育でも「居場所」みたいな言葉が多く使われるけれども、ちょっと安寧・箱庭的というか自足的ニュアンスがつきまとうから、昔風に「足場」みたいな言い方の方がいい気がするのだ。集団のなかで個人が拠って立つものは様々な形をとるからである。すなわち、拠って立つものが安全安心みたいな観念にとらわれすぎると、その拠って立つものがある種の防衛的言動そのものだったり、庇護そのものだったりすることが問題になりにくくなる。ちいさい子どもにとってはバリケードが桎梏だったりするものである。たぶん、自らの「弱さ」を自覚する子どもにとってその心理的カラクリは欺瞞ではなく生きるための必死の策ではあるが、それを積極的な拠って立つものにしてしまうと生き方として欺瞞になってしまう。マイノリティ運動にもつきまとう事態である。
「支援」のような観念にも似たようなことが言える。この言葉は、子どもそれぞれの思考過程を重視するようでそうでもない。教育目的に奉仕させがちになるのはもちろん、失敗によって過程を作り出すタイプを甘やかしたり排除しがちである。そもそも子どもの性質とか性格ごとの違いには神経質になる一方で、過程の複雑さに対して観察の目がぼんやりしているのはまずい。ここ何十年か自明化しているワークシートはもちろん子どもの個々の思考過程の消去だし、言うまでもなくグループワークは個々の思考過程が教師から見えにくくなる。見える化や対話といった観念が目的化することによって起こった、結果的には、個への攻撃である。
先日、小学校のときの担任の先生が若い頃書いた国語教育に関する論文を古い方から読んでみた。昭和五〇年頃の四〇代半ばで中学生を教えてた頃までは調子が闊達で、生徒の発達過程に対する信頼がありそうなんだが、それ以降どことなく子どもが拠って立つ「足場」が形成されにくい現状に対して当惑と疲労が見られた。おそらく、子どもの思考過程より個そのものへの違和感が目の前にちらつきすぎたのである。このとき指導していたのがわたくしのクラスであって、まったく申し訳ないとしかいいようがない。こういう親の未成熟と相即的であるところの不安定な人間たちを相手にしてばかりいると、教師は子どもの思考過程を観察する精神的余裕を破壊されてしまう。現代の「一人も取りこぼさない」云々という宣言は、個の尊重のふりをした個への違和感を消去したくて仕方がない我々の歎きでもあって、最悪の場合、ますます集団内の均質化に向かうにきまっている。必要なのは、人間の成長過程をものすごく長く想定し、それを観察できる環境を失わないことである。マイノリティ運動もおそらく性急な世界の改造を望みがちであるし、当然の権利ではあるが、それは長い改造過程を許容することでないとかならずバックラッシュしか起こさない。その意味において幸運なことにというか、なんというか、わたくしのいたクラスは六年間一人の担任が我々を観察し指導した。しかし、童話作家でもあった先生の創作は、その疲労故にか低迷期であった。
告子曰、食色性也、仁内也、非外也、義外也、非内也、孟子曰、何以謂仁内義外也、曰、彼長而我長之、非有長於我也、猶彼白而我白之、從其白於外也、故謂之外也、曰、異於、白馬之白也、無以異於白人之白也、不識長馬之長也、無以異於長人之長與、且謂長者義乎、長之者義乎、曰、吾弟則愛之、秦人之弟則不愛也、是以我爲悦者也、故謂之内、長楚人之長、亦長吾之長、是以長爲悦者也、故謂之外也、曰、耆秦人之炙、無以異於耆吾炙、夫物則亦有然者也、然則耆炙亦有外與。
人は人に内にあり、義は人の外にあるという主張する告子に対して、孟子はなぜそう言えるのかなぜそう言えるのかと譲らない。しかしこれも決着がついていたのではなさそうである。対話というものはそういうものだし、もっと人数が増えてくるとえらいことになる。
今日は、「近代の超克」座談会について授業でいろいろ話した。この座談会についての評価はいろんなものがあるけれども、まずはそれが事前提出論文のあとの座談会であって、逆ではなかったことがいろいろと評価を左右したんじゃないだろうか。それぞれの人間が考えていることがうまく表現できずに例えば小林秀雄の啖呵に掠われてみたいな側面はやはりある。小林だってほんとは座談が好きな方じゃないと思う。あまりそういうことすら考えていないのが林房雄で、まじめな吉満義彦の言葉を遮って、「科学者は神の下僕となるべきと思っている」と言ってみたり、お前はヤンキーかよ、という感じであり、このヤンキーに配慮した座談の進行がすこしはある。
日本の座談会やシンポジムって、わりと勉強して臨んだ人を、世界と人間分かってるみたいなポジションの人たちがいじめる風がある。なんか吉満義彦なんかまじめでかわいそうな気がする。学会も大学も座談会化が進むとめんどうである。いろんな意味で現在に向かって書く人が多くなるとそうなる。知識人の文章なんか、いつ時代や人間によって発掘されてくるかわからないものであって、学問の進行などは一つの指標になってるかどうかも怪しい。そこで現れる差異というものを説明するのは容易ではない。
とはいえ、林がただのヤンキーだったかといえばそんなことはない。今日は、わたくし、もしかして、彼の『近代の超克』所収の論文「勤皇の心」の修辞を宇宙一詳しく解説したんじゃないか、と思ってしまうほど、――読者の肺腑を抉る堂々とした文章で、やはりこいつは文学者であった。こういうのを馬鹿にしている学者達は彼の内容しか問題にしていない。君たちの問題にしている神は、文学の言葉がなければ抜け殻にすぎんじゃないかと、一瞬思ってしまう迫力があるのである。しかし、座談ではそういう迫力がヤンキーのそれになってしまうのだ。本性かもしれない。
これに対して、西谷啓治の座談会の発言を読んでいたら、この人は案外、喋ったほうがいい気がするぞ。。対立する人がいたほうがいい気がする。
告子曰、「性猶湍水也。決諸東方、則東流、決諸西方、則西流。人性之無分於善不善也、猶水之無分於東西也。」
孟子曰、「水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。人無有不善、水無有不下。今夫水、搏而躍之、可使過顙、激而行之、可使在山。
是豈水之性哉。其勢則然也。人之可使為不善、其性亦猶是也。」
人間の性とは善であるか、そうでないか、これを水で説明しようとする気持ちは分かる気がする。人間機械論的なものの繁茂はいまも続いていて、文化は人間をこえたのこえてないだの、そもそも記号は超えてるなどとうるさい限りである。告子や孟子の方が物質的な議論をしている。我々はほとんど水で出来ているではないか。
わたくしが興味があるのは、本性が変化するかどうかである。そこからいえば、水だと言い切っている告子や孟子は根本的に心が清い。濁った水で議論している感じがしないからだ。最近は若者がテレビをみずにスマホ見てて、みたいな恐怖を抱いているご年配の方々に言いたいのは、やつらがみているのはちっちぇえ多チャンネルテレビであって全然事態はかわってないということである。ちっちぇえから持ち運びが出来るようになったに過ぎない。でも、本性がかわっているという人間の直観はあまり馬鹿にしてはいけない。見ることそのものに葛藤がないことは確かに変わった。テレビは、見ている人間の視線が交わる空間であった。だから恥ずかしくて多人数では見てはいけないものが存在していたのである。見ることの現場そのものにコミュニケーションがあったと言ってもよいかも知れない。
怒鳴りあいの喧嘩をしてそのあと殊更仲良くしようとしなくても仕事を一緒にやれるみたいな能力がコミュニケーションの能力であって、悩みを共有できるみたいなのは、なんというかスマホ的で、窃視的でもある気がする。許されているのはコミュニケーションの訓練の授業とかグループ治療みたいな現場だが、人を勝手にみてもよい情報を共有してもよいコモンセンスが許されるのはテレビではなくスマホ的だと思うのだ。わたくしはどうしてもそういうシュチュエーションになじまない。先日、テレビで、コロナ後の大学生のコミュニケーション能力の低下というか対人恐怖についての番組をやっていた。高校まではコミュニケーションが得意だったのに大学にきたら難しくなったみたいな学生が出ていた。――しかし、いろいろ原因はあると思うけど、部活にしても高校までは教師がコミュニケーションの手助けをしてしまっているんで、大学で自分の実力が露呈するというのはあるように思う。コロナ以前の問題ではなかったであろうか。
愛情にしろ友情にしろ?派手な失敗が必要で、しかもそれを自分のせいにするしかない失敗が必要で、そのためには放置されている必要がある。大学の教員と密に話したあとで急に実力が発揮する学生が散見されるけれども、ちょっと極端だと思うのよな。仲良くならないと頭が回り始めないというのは、すごく分かるが、そんな関係は大学が所詮学校だからだよ、と思わざるをえない。
しかしまあ、なぜこういう話題で、マウスでの実験をすぐに人間に適用したがるのであろう。マウスを孤独にしておくと他のマウスをいやがるようになるのだそうだ。しかしそれはそりゃそうだろう。証明する以前に当たり前のことしか証明されてないではないか。人間のコミュニケーションの具体性に即した議論をしなきゃ意味がないんじゃないか。例えば、人が怖い、と学生が言っている意味は対人恐怖症的な防衛本能なのではなくて、荒れた中学校で友人が怖い、みたいなものである可能性があると思う。大学だって、頭の★そうなやつらが集団でのし歩いていて、そういうやつらとグループワークしなきゃということで「怖く」なっていることだってあるわけだろう。高校までは、そこで教師が介入してくるわけだが、大学ではありえない。そこで逃げの一択ということになるかもしれない。――これはわたくしの妄想であるが、コミュニケーションは具体的に想起しとかないと意味がないのである。そもそもこういう妄想もコミュニケーションの一部である。
近代叙述文体のふにゃふにゃさに嫌気が差し、漢文や古文の世界を彷徨っていると、やはり垣からのぞき見られるはわれわれのふにゃふにゃした姿だ。――これもわたくしの妄想であろうが、コミュニケーションの一側面である。
AIの発達で、いまこそ児童生徒の十人十色の読解の出番である(棒読み)。そもそも読解が多様である以前に、読解そのものが滅茶苦茶なものだ。AIはネット上で発表された映像や言語だけをみている。社交で論文で書こうとしているのがAIだ。例えば、わたくしのエンドウ豆スナックを妻がぬすみ食いした理由について自由に論じなさい、とAIに命令したとする。たぶん、何らかの答えが返ってくるのであろうが、そもそも盗み食いしたのはわたくしである。命令自体が虚構であった、と同時にわたくしのコミュニケーションの性格を示しているのである。ロマン派の議論は、こういうものが人間に於いて何かを構成してしまうことを論じていたように思う。
カエルの映像見てたら、実に我々は平泳ぎを彼らから学んだみたいだし、向上心も忍耐力も植物なんかから学んでるきがするわけである。それをあれですか、AIは人間様から学んで倫理的にも自分で律しようというね、どこまで人間が好きなんだよいい加減飽きろや、でオレの庭にまた糞を落下させた鳩はすみやかに地獄に墜ちるべし。
孟子謂萬章曰、一郷之善士、斯友一郷之善士、一國之善士、斯友一國之善士、天下之善士、斯友天下之善士、以友天下之善士爲未足、又尚論古之人、頌其詩、讀其書、不知其人、可乎、是以論其世也、是尚友也。
善士であるならば彼がいる郷土に一人で影響を与える、そういう人は同レベルの人しか友人とせぬ。国の場合もおなじである。天下の場合も更におなじだ。それでも満足で来ない場合は、いにしえの人を論ずるのだ。その人の詩、書を読み、その人そのものを論じないわけにはいかない。これで古人を友と出来る。
なんと、いにしえの偉人を友にするのは、郷土の、国の、天下の善士という段階を踏み、その上で満足できない人間がやるべきであった。実際は、善士ではなくコミュニティに影響をあたえる悪人の方が、この段階を踏めるわけであるから非常に難しいことだ。だから、この善士というのは、ヤクザの親分ではなく、そのヤクザを善導する人間のことであり、孟子の言っているのは、そういう人間の存在意義のことなのである。一国のブレーンとなった暁には、もうすにで古の偉人の言葉だけではなく、その人間のあり方まで会得しているに違いない。そのあり方とは、善導されたヤクザのあり方のことである。
この言葉の上での善と、人間のあり方のつながりはどのようにして実感されるべきなのか。たぶん、ヤクザとインテリでは、本性が同じである可能性があって、能力や性格や魂の違いなどは適当に付与したり出来るものと勘違いされやすいものである。やはりこれは、「根が**」(西村賢太)の部分から実感される必要があるのだ。昨日、親や姉妹がわしの家にやってきたんだけど、心と魂、身体と性格、みたいな対立はだいたい親から受け継がれた何かをもっともらしく対立物にしただけのような気がしてくるからオソロしや。この恐ろしさが「根が**」の実感というやつである。人間のカオス的なあり方は、親子や兄弟において実感され、それだけに対立も昔から生んできた。しかしこれを実感しない社会が心を持つのかどうかわたくしは不安だ。
インベーダーゲームや真理夫すらやったことのない、ゲームといえばオセロが限界のわたくしであるが、ゲームやり続けて育った方々はかように負けが込んでいる人生なのに、なぜプライドが高いのであろうか。彼らのいうバーチャルというのは、なにか神様かなにかに対するように、一種の自らの行為の無謬性を獲得する。人を殺しても平気な場合、人は神様でなくても神を信じるしかない。ゲームの場合は、信じるところから逆行している。思うに、チャットGPTに対するのんきさもそんなところがあるようだ。わたくしは、もう三回ほど、講習や講演でこのAIに対して敬語を使っている人間に会っているが、逆にこれは、漱石さんとか、式部さんみたいななれなれしさに通じる不遜さなのである。
最近ちょっと流行の、古典作品のくだけた現代口語訳(を超えたポエム)は確かに楽しいかも知れないが、チャットGPTでつくった妙な調子のいい文章をいい文章だと思って挨拶文とか要約に使ってしまう精神とどこかしら似たところもある。言葉だけではなく、その人間がどういう者か知ることが友となることだという孟子の金言からして、信じられない堕落なのである。
むかしのテレビは、脳天に対して気合いを入れると少し映りが回復したりすることもあった。いまの機械の方が遙かに人間に機構的には近いのかも知れないが、脳天に気合いを入れてもなおらない。寿命も半分くらいになった気がする。昔の機械が、馬鹿な中学生が窮死するかんじで、いまの機械は小学校に入りたてで植物人間になる口だけの天才児という感じだ。悲惨さもあれだけど、――そもそも擬人化できにくくなってるのである、いまの機械は。擬人化とロボットは根本的に違うものであった。我々自身が擬人化された肉であるように、我々の擬人化の行為はモノに対する蔑視と慈悲の錯交した視点によって成り立っていた。それをロボットは、土人形に自らを投影する一元的な意味で異常な視点によって消去する。
ロボットは群れることができない。その代わり、人間を平等に奴隷にし、自らもそれを模倣する。学問がやたら越境したり合体していかずに領域を守る傾向があるのはまさに人間らしいが、ヤクザみたいなものかもしれない。が、それがないと勘違いすると、容易に他分野の人を馬鹿とか言ってしまうのであった。AIに、挨拶文ならの「雑用」や思考の下部作業をやらせて自分は研究をいたしますみたいなことを述べてしまう学者がいたとしても、決して
孟子曰:「仕非爲貧也,而有時乎爲貧;娶妻非爲養也,而有時乎爲養。爲貧者,辭尊居卑,辭富居貧。辭尊居卑,辭富居貧,惡乎宜乎?抱關擊柝。孔子嘗爲委吏矣,曰:『會計當而已矣。』嘗爲乘田矣,曰:『牛羊茁壯,長而已矣。』位卑而言高,罪也。立乎人之本朝而道不行,恥也。」
仕官するのは道を行うためであるから、貧乏を解消するためじゃないんだが、だからといって貧乏のために仕官しても別にかまわない。その代わり高い地位には就くな、というのが孟子の主張である。当時も、志の低い役人たちにかぎって上昇志向がものすごくて孟子はほとほと嫌気が差していたに違いない。孔子が倉庫番だった、牧畜係だった、みたいな例を繰り出す孟子は、実際の倉庫番や牧畜係の怨念だけでなく高い地位の役人に対する孟子自身の怨念を自身に感じていたに違いない。だから孔子は低い身分でも頑張っていたと自らを慰めている気がする。
20代の頃は、気取った逆説のなかに真意以外の色合いをみたくて頑張ったところがある。例えば、最近でも、ここ数年、ときどきペルソナについて調べたり考えたりしてきたので、「仮面浪人」という言葉になにやらものすごいものを感じる。まだ私の中には「浪人」的なものへの憧憬がくすぶっているわけだ。が、いまは孟子の怨念みたいなテーマの方がどちらかというと好きである。わたくしは、モノの手触りや心(言語)の物質性に関心するタイプではなく、どこかしら実務家的なセンスがある。むかしから部活ばかりやっていたせいかもしれないが、最近は、儒教を読んでいるからでもあろう。この教えは、実に馬鹿に対して有効であるとともに、その教えを学ぶ者にルサンチマンを温存するところがないであろうか。
たぶん、SNSの発達は、どこかしら、文章の文化の変容、――金言化をもたらしている気がする。我々の風土と怨念のあり方からして、儒教的なものがリニューアルされて復活する可能性は高いと思う。差別やマイノリティに対する感覚を支えるのは道徳の普遍性に対するパッションである。科学的な知見に従えば、すべての命の現象を平等にあつかうところまでしか行かないのだから、かえって問題は、悪を同定するパッションをどこから調達してくるかだ。最近は、不自由はいけないみたいなところにそれを求めるというのは、不自由に対する感度が悪くなっているので難しいのではなかろうか。
例えば、「ここは退屈迎えに来て」を拝読しておもったが、結局作者のパッションは、おそらく青春時代に経験した庵野秀明なんかだろうが、――庵野がもたらしたのは新手の思春期とか青春とかなんだろうと思わざるをえない。それは、人との和解を未来に置いた引き籠もりの劇で、一種の「仮面浪人」の世界だが、自らの自由を放棄することによって、人に接近しようとする企みである。わたくしはそこには、孟子の抱いた怨念の世界もなければ、小林秀雄の骨董の世界もない気がする。
旭大明神は紙町。アパートと住宅に埋もれるようにひっそりと。
由縁の碑によると、この地に高松市で教師をしていた藤田さんというひとが退職して移ってきていたのだが、昭和三年、これより少し北に走る琴平街道の工事の時に、川原から石棺が見出され、そこから白い蛇が出てきたので、霊験あらたかということになり、藤田さんちの鎮守として祀ったということである。金比羅信仰はインドの水の神クンピーラからきているというが、蛇なのである。このことと関係あるかわからないが、近くの御坊川も琴平街道も、出てきた蛇も総じて水の流れのような何かで、香川にとってはまさに命そのものである。石棺からでてきた蛇というのもいい。死からの復活を示しているようである。金比羅(琴平)街道を通る人たちはみずからが水となり、生となって歩んだにちがいない。いや、そうばかりとはいえないのだ。
数年前、弟が出征したとき、母は、武運長久の願をかけに、山口からわざわざ琴平詣りをした。五月雨のころであった。父にあたる人は七年来の中風で衰弱が目立っていたから、母の琴平詣りも、ほんとうの願がけ一心で、住んでいる町の駅を出たのは夜中のことであった。私がお伴をして、尾の道で汽船にのった。尾の道と云えば「暗夜行路」できき知った町の名である。町を見る間もなく船にのりこみ、多度津につくやいなやバスにつみこまれ、琴平の大鳥居の下へついたときには、かなりの雨になった。
番傘を、下から煽る風にふき上げられまいと母の上にかざして何百段かの石段をのぼりつめたとき、更に高い本殿まで昇って椽側に腰をおろしたとき、私のこころは憤りでふるえるようであった。子を無事にかえしてほしいと思う母親、許婚の命があるようにと願う若い女。本殿のところに腰かけてみていれば、降りそぼつ雨にうたれて、お百度をふんでいる人さえある。せまい陰気な雨の境内は人ごみで雑踏し、賽銭をなげる音がし、祈祷の声がする。切ない心で諸国から集ったこれらの人々が、みんなあの幾百段をのぼって来ている。信仰の勿体なさを深くするため、印象づけるため、すべての流行する信仰建築は、きっとこういう途中の難関を計算に入れている。善光寺の山門までの長い単調な爪先のぼりの道中は何のためだろう。いじらしい人間の心を食い、無事息災をいのる心でたつきを立てるならば、せめて、年よりの足にたやすい方便を考えてもよいだろう。こういう願かけに、義弟の尊い生命の安危をたくしかねる私の心は、素朴な憤りにふるえた。こういうあわれな仕草で、自分の思いを表現するしかない人民の立場、しきたりが心に刻まれたのであった。
そういう憤ろしい思いで雨の中をのぼり下った琴平の大鳥居の下に、こういう小道や公会堂があって、暗いやるせない信心とはまるでちがう新しい気運が、そこで開かれている会合で活溌に表現されている現在が愉快であった。こういう著るしい歴史の対照のもとで、琴平の町が私の生活に再び登場して来ようとは思いもかけなかった。そういう心もちは、琴平の裏町のこまやかな風景をすなおに私に感じさせるのであった。
――宮本百合子「琴平」
就職問題で始終頭を悩ますと同時に、卒業試験が可なり気になる。これでお仕舞いだからといって、教授連中は斟酌してくれない。出来ないものを卒業させると学校の信用に関するから、進級試験よりも寧ろ厳重だ。うっかりしていると、就職が及第で学校が落第のこともある。素より卒業が条件で採用されるのだから、これは当然取消になる。そこで学問と社会の両方面へ心を配らなければならない。教室と掲示板に等分の注意を払うことが必要となる。
学校の掲示板も、
「何教授今明両日休講」
なぞというのを楽しみにしている中が花だ。昨今の掲示は学生の運命を決定するから恐ろしい。
「駄目だよ」
と口には言っても、会見をして来たものには皆多少自惚がある。自分のことだから然う悪くばかりは考えない。殊に多少縁故もあるし、馬鹿に調子が好かったと思って九分通り大丈夫の積りでいる男が、
安田関係諸会社に就職確定したる諸君左の如し
の次に他の名前ばかり立派に並んでいるのを見て顔色忽ち蒼白となる。
――佐々木邦「恩師」
大学は雨のため休講