★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

失丈夫

2023-10-17 23:00:30 | 思想


六二。係小子、失丈夫。

子どもを縛っていると大人を逃がしてしまう。これは、なかなか含蓄がある。学校教育で子どもを縛っていると、大人の教育を逃がしてしまう。学校教育にたいしてやたら意識的な社会というのは、大人の逸脱行為を制御できない。当たり前である。発想が、せいぜいわがままな人形を静かにさせるみたいな矮小さに陥っているので、大人の問題を解けないのである。

中2病や老害をいじめる社会に、SDGsとか一人も取り残さないとか、どだい無理な話なのではないだろうか。SDGsは少なくとも問題は複合的にしか解決されえないということを言っているわけであるが、中二病とか老害とか一人も取り残さないみたいなスローガンが命令と化しているのは、ほぼ我々が社会を、悪をそのつど一つに確定して糾弾してつぶす学級会みたいに捉えているということである。現実の子どもは、学校から常に帰る。

冥豫

2023-10-16 23:26:51 | 思想


上六。冥豫。成有渝。无咎。

逸楽で目がくらんでしまうことはある。それを変革したら災難は訪れない。

逸楽にも人間的な技術が必要である。だからそれが結果するものがいろいろなのである。現代は、しかし、人間的な技術の涵養に向かわせる環境がさまざまに整っていない。例えば、若い人たちが宴会とか集団での催しを嫌う原因には、いろんなものがある。が――年上の強迫的な昭和のり?みたいなのもひとつの原因としてありうるけれども、同世代の無神経な人間が耐えがたいレベルであるのも原因なのである。お互いに、というより、――明らかに赤ん坊レベルのやつがいるからだ。そういえば、考えてみると昔もいたが、そういうのは責任ある立場の者が、責任をかぶって罵倒したり、周りも嫌がらせをしたりしながら、徐々にコミュニティから追い出したりしてたんじゃないか。これは差別となってしまう場合もあるが明らかに不可避的な行為である。しかし現代ではこれが、おおくくりに、金子みすゞの真情とは反対方向に「みんなちがってみんないい」になってしまうため、非常に難しくなっている。すなわち、アカン無神経な人間に対する繊細な判断が、雑な社会的コンプライアンスによって暴力的に不能化させられているわけである。金子みすゞを殺したのはそういう不能化なのに。

上記の人間として一般にイメージされているのは、空気が読めないタイプであろうが、実際は、どちらかというと、いわば昭和のりが無能化・怪物化したようなかんじの人間であって、包摂や協働みたいな観念を最悪なかたちでエサとして与えられて自己を安定させたタイプのようにも思われる。戦時下にもたぶんいたな、こういうの、という感じである。総じて、いまのわかいひとはコミュニケーション能力がない、みたいな判断は一般的にも印象批評としても無効なんじゃないか。彼らの目の前には、コミュニケートしたくない、つきあいたくないやつが非常にたくさんいるようにみえるからである。先のアカン奴に引き摺られて群れと化しているなかではよいことができる感じがしない。そんなところには皆混ざりたくないであろう。もっとも、自意識でそう思っていても、問題は、そう思っている自分が当のアカン奴になっていることがあるという事実にそこそこ気付いている人間も多い。しかし見えている原因が自分にもある状態が一般化してしまえば、それはそれでどうしようもない。心ある人間はだまり、心ない奴だけが他人にだけ原因を見出していよいよ暴れ出す次第だ。

集団化しても群れの分散した集合にならないように、信頼される人間になることはいつも大切だ。コミュニティにとって信頼感がベースにあるべきなのは倫理の問題ではない。――実際は、お互い頭が悪くなっていれば、お互いは助けあうことは絶対にない。察することが出来ない人間にサービスしてもしかたがないからである。人間が集団で生きなければならない以上、こんなことを指摘して「指導」する人間が最終的には必要である。むろん、この「指導」は必ずエスカレートする運命にある。

義務を負う権利

2023-10-13 23:41:46 | 思想


 文学の生命は何か。悩める魂の友だといふ。それも亦休養娯楽だ、と私は思ふ。人々の休養娯楽に奉仕するだけでも立派な仕事ではないか。棋士は将棋によつて、職業野球家は野球によつて寄席芸人は落語漫才によつて人々の休養娯楽に奉仕する。まことに立派な、誇るべき仕事ぢやないか。よき棋譜により、よき野球により、よき演芸によつて人に負けない好サービスをなし人々をより多くたのしませるために心を配り技をみがき努力する。意義ある生活ではないか。
 人々が私を文学者でなく、単なる戯作者、娯楽文学作者だときめつけても、私は一向に腹をたてない。人々の休養娯楽に奉仕し、真実ある人々が私の奉仕を喜んでくれる限り、私はそれだけでも私の人生は意味があり人の役に立つてよかつたと思ふ。もとより私は、さらに悩める魂の友となることを切に欲してゐるのだけれども、その悲しい希ひが果されず、単なる娯楽奉仕者であつたにしても、それだけでも私の生存に誇りをもつて生きてゐられる。誇るべき男子一生の仕事ぢやないか。


――坂口安吾「娯楽奉仕の心構へ」


しかし、実際のところ、彼の文学はそれほど娯楽的ではない。

子どもの頃、ソニー三大色物バンドなどがはやっていたのをみて、こんなサブカルみたいな、ある意味マイナーでなければならないものが面白がられて、ドス★エフスキーとかゲ♥テとか言うと、権威を押しつけるな的な声が沸騰してしまうのは何か変だと思っていたが、いまもあまりかわらない。読書は勝手にすれば良いが、文学の歴史は、思想、政治の歴史と同じで我々に少なからず知的な義務を課しているものである。その義務を負う権利が我々にはあるのだ。文学を人間のありかたの表出や娯楽としてのみ受け取るのは、文学を楽しむ権利で歴史の義務を放棄することにほかならぬ。

例えば、水戸黄門の光圀というと、テレビの俳優のせいか、どことなく好々爺みたいな感じになっているかもしれないが、昔の講談本の挿絵とかみると、眼光鋭い豪傑風なのもある。だいたい幼少期のエピソードで、さらし首をまったくこわがらずに小脇に抱えて帰宅しましたみたいな人物なのである。ただのおふざけであるが、――いやそうでもないのだが、東浩紀氏の、家族を基体とした観光客を左翼的ゲリラ?みたいに展開すると、水戸黄門になる。さすがに爺だから、弾圧もされんぞしらんけど。

こういうものも文学や思想の歴史である。

学者もつい義務を放棄する。学者の主張は普通に認識だと思われているが、その実、バッターがバットを振ることを身体の自然な動作に達するまで反復練習したのと同じようなところがある。我々は、ほんとに考えて下さいと自分に呼びかけることが必要である。

自分の感触としては、みんなが知っているであろうものがなくなってそれに喩えて説明することが不可能になったことはそれほど困ったことではない。すべてがトトロに喩えられる方がよほど問題だ。文化がつねに娯楽的なもののなかに埋没するのは進歩をやめているときである。戦時下が意外に文化の進歩を促すのは娯楽が抑制されている以上、案外当然だったのである。

当世書生。。。

2023-10-12 23:38:49 | 文学


今越歴の講義が終ッて試験に掛る所で、皆「えれくとりある、ましん」の周囲に集って、何事とも解らんが、何か頻りに云い争いながら騒いでいるかと思うと、忽ちその「ましん」も生徒も烟の如く痕迹もなく消え失せて、ふとまた木目が眼に入った。「ふん、『おぷちかる、いるりゅうじょん』か」と云って、何故ともなく莞爾した。

ときどき二葉亭の「浮雲」を読むと、もう既に全部やってるじゃんみたいな気分になるけれども、今日は梅ごよみ読みなおしてて全部やってるじゃんという気分になった。昼休みは平家読みながら全部以上やってるじゃんと思った。

私は正直なところ、源氏物語より遙かに平家物語の方が好きである。人間を突き抜けたものがあるからだ。

共通科目で自分から「浮雲」を読んで予習してきた学生がいて、ひとしきり浮雲の読みにくさについてその学生と語った。まあ、共通科目の方が自分で選んでるだけあってやる気のある学生がいる。以前、ものすごい才能の持ち主が医学部にいた、その後どうなったんやろと。。。

すなわち、本当は私は馘首された官僚の話である「浮雲」よりも、革命と恋と学生の話である「当世書生気質」の方を評価したいくちである。

サービスと街の声

2023-10-11 22:40:18 | 思想


六五。不富以其鄰。利用侵伐。无不利。

富を分けてくれないけちな國は成敗するがよし。よいことあるよ。。。

もしかしたら、近代中国や近代日本が成敗される方向であったのは、けちだったからであろうか。まったく間違ってはいないと思うのである。アメリカなんか、自分で自分の生産物を消費しているだけなのに、戦はいつもきつく、意識としては、世界中、サービスしてくれないけちな國ばっかりだ、と思っている節がある。我々は、ひどいことをされた場合に、相手を見ないように防衛本能が働く一方で、サービスのやり方を間違われるとプッツンする傾向がある。

安倍元首相がそうであった。彼の最後のサービスはマスクであったが、とつぜん(ではないが)、人々はプッツンした。

先日、映画「国葬の日」をみた。この映画は安倍元首相の〈国葬〉の日に全国でインタビューを行ったものである。かくして、それは「レボリューション+1」の監督のインタビューをふくめて、基本的に所謂「街の声」の集積となった。普段ニュースでみる「街の声」にほとんど価値がないようにみえるのと同様の感覚を抱かせながら、そこにある決定的な差異を見出していこうという戦略である。国民の分断、そんなものはない。あるのは膨大な無知と個々の意見の相違であり、決定的な差異というものが中にはある。――それはわかる。しかし、今の世界でこのような「街の声」がそもそもどのようなものかという考察はこういう映画では困難である。だから、この作品では、国葬に関わった少数の人ではなく、無関係にみえる国民の狂騒がいつの日か戦争を導くような演出が最後なされていた。

私自身は、こういう演出にあまり意味はないと思うほうだ。かえって多くの作者たちが日常の中に我々の狂気をさぐっていっている努力を助けたいと思う。鳥飼茜氏の『サターンリターン』を途中まで読んだが、これもそうだと思う。押見修造氏の「血の轍」が完結したんで読了したが、これもそうである。トラウマに乗っ取られると、世界はゆっくりとした走馬燈のようになってしまうような世界があらわれる。「レボリューション+1」は見ていないが、我々が浮世離れしたことを行う具体性とは、押見が描くようなもののなかにもある。

より卑近なところでは、アンケートみたいな密告のしくみをやめれば少しはましになるだろう。テレビの何が嫌かって、愚にもつかない視聴者の声を画面下部に流すのもそうだけど、ワイプってやつね、あれはじつに最悪である。せめて人間ではなく蛙とかインコにしてほしい。

ジャングル

2023-10-10 23:12:17 | 文学


夜の東京の、新宿駅付近や、上野不忍池付近は、一種のジャングル地帯だと言われる。酔客、ヨタモノ、パンスケ、男娼、などなどの怪物が横行していて、常人は足をふみ入れかねる。このジャングルを、一夜、警官の案内で坂口安吾は探検した。
 だが、ジャングルは他にもある。近頃の若い婦人の頭髪を御覧なさい。パーマの長髪を、頭の二倍大、三倍大にふくらまして、颯爽と五月の風になびかしてる、と言いたいところだが、実は、ただもじゃもじゃ、くしゃくしゃ、後頭部から肩へ引っかついでるだけで、雀の巣どころの代物ではなく、全くのジャングルだ。


――豊島与志雄「ジャングル頭」

善悪と時間

2023-10-09 23:45:21 | 思想


六五。厥孚交如威如、吉。

ビギナーズクラシックでは、この部分を「その捕虜をきつく縛り、おどしつけておけば、吉」と解している。果たして、吉とは何であろうか。どのような意味で吉なのか。大吉と吉は違うがプロセスのどこかであるすぎない。捕虜を縛ることと、君主が慕われることには繋がりがあるに過ぎず、同じではない。繋がりを否定できるわけではない。むしろ、吉とか大吉みたいな違いであって、善悪に還元できないものなのであろうか。確かに、われわれの世界は、善と悪を細かく切り分けるかわりに、このような物事の感覚を失った。細かく善悪に切り分けなければならないから、よけいに時間が切り分けられる必要が出てくる。ネット上の刹那主義はそういうことと関係がある。

AIとか聞いて人間がまけるとか勝つとか思っているやつはほぼ頭がAI化しているので、せめて田島列島氏の「ジョニ男の青春」ぐらいよんどけと。これをしかし、またロボットと人間の関係の戯画化とか言ってしまうからいけないのだ。

今日は高松市美術館に「20世紀美術の冒険者たち」展があったので行ってきた。ピカソの「ラ・ガループの海水浴場」がきてた。人だかりもできてた。あとひとつの人だかりは、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」。これは印刷で見るより真っ黒に見えた。人間の顔よりも群衆のしかもつぶれた群衆のすがたにひきつけられ、みずから群衆となる人々。しかし、これも再秩序の欲望で、そこには案外、我々に欠けている「時間」があるものだ。

群衆と機械主義

2023-10-08 23:58:49 | 思想
九三 伏戎于莽、升其髙陵。三歳不興。

兵士を草むらに隠し高陵で敵をうかがう。三年たっても挙兵できない。

もしかしたら、兵士たちはもう死んでいるのかも知れない。我々はショック状態にあると時間順も感情の起伏も失う。それを回復しようとするとかえって恨みだけしかないとか勝利感しかないみたいなロボット状態となる。二十世紀の機械主義が戦争と関係あったように、あれを美的に感じること自体はいずれ何かによって復讐される。

NHKのニュースで、イスラエルの件を暴力の応酬が止まらないみたいな言い方してたけど、殺し合い(これからはたぶんジェノサイド)の間違いではないだろうか。言うまでもなく、前者の言い方はロボット的である。風景としての戦争は、集団スポーツの観戦に似ている。集団のラクビーの選手たちが向かってきたら常識的に考えて逃げた方がいい。私がスキなのは、一人でトラックを引いたりするマッチョマンである。こういうもののほうが感情を対象に投影できる。サッカーやラクビーは人間ではなく、ボールと人間の関係の何かが動いているだけなので、なにか我々の感情は別のものに向かわないと落ち着かない。

ソ連の革命も集団主義の結果であった。そこでは、機械主義の芸術が花ひらいた。若い芸術家たちが、機械的なものに興奮した。ショスタコービチも多分そうであった。彼は群衆さえもポリフォニーで機械のように再現できると思った。その極点は、交響曲第四番の第1楽章である。ユロフスキとベルリン放送との四番を聴いていたら、むかしは散漫でおもしろくなかった第3楽章だけが、いちいち寸断されているが喜怒哀楽のようなものが描かれているような気がして、作曲者が音楽と感情の関係について考えているように感じられた。最後は感情を超えた絶望で終わる。たぶん、作曲者は、最後の絶望から、原因を青春時代にまで遡って検証して表現したと思う。

庭に出たら、変色し触覚がもげ、足も少し失ったオンブバッタのカップルが私の後ろで逃げていった。


繋于苞桑

2023-10-07 23:30:02 | 思想


九五。休否。大人吉。其亡基亡。繋于苞桑。

油断大敵で、逃げるぞ逃げるぞ、桑の木に繋いでおけ。反近代論と戦後のエンターテインメントについて今日、菊池寛記念館で喋った。準備を多め(時間を)にしてその場で考えながら喋った方が、市民講座はいいようだ。逃げるのはお客さんの方ではない。自分自身の興味の方なのである。エンターテインメントの意味に重点をおいて喋ったのはこれがはじめてだが、収穫があった。

涼しいとか言うても木曽の夏の気温

2023-10-06 23:51:24 | 日記


城復于隍。勿用師。自邑告命。貞吝。

上の写真は、高松築港の駅で、高松城の堀の近くである。上の占いは、城壁が崩れて空堀に戻るとか言うておるようであり、こんなときには武器を使うなと言っている。高松城は江戸末期にはかなりひっかしいでいたらしいけれども、最近はなにか光のワザまでつこうて天守閣を復活させているようである。そもそも栗林公園にしてからが、市民の努力がなければ、明治維新以降、なきものになっていた可能性すらあるそうだが、城はなかなか復興せぬ。しかし頑張っても松本城とかには勝てないわけであるから、そんなに頑張らなくても、香川県庁があるじゃあないか。

秋なのに授業

2023-10-05 23:51:24 | 大学


就職したからといって仕事が出来るとは限らないのは当たり前だが、案外その自明の理を想定しておかないから自分の無能さにびっくりというのがあるわけなのである。入学できたからといって卒業できるとは限らないのと同じで、というかそれ以上に、「限らない」のである。庇護する人間いなくなった状態を早く経験しないといけないのは昔も今も同じだ。最近は社会も社会事業意識化したケアの論理が、むしろ社会の学校化をおしすすめている。

学校化が進むことは、逆に学校の社会化が進むことの裏返された現象でもある。実際は対立物は、つねに総合浸透しているから、変容が起こるのだ。例えば、高野悦子/岡田鯛のコミック版『二十歳の原点』は、現代の大学生が、自分に目覚めて先生になろうとする話になってた。以前読んだときには、なんでそんな原作無視したことするのと思った。がっ、いまやみんながいやがる先生になろうとすることは、全共闘参加ぐらいには勇気のいることになったのである。闘争の場は学園闘争みたいにあらかじめ広場が与えられていたみたいなことよりも、もっと苛烈に、小学校や中学校で権力とのそれが実現してしまっている。

今日も授業で少し間違えてしまったが、つまり、経験を重ねたからといって間違いが減るとは限らないのも当然である。

我々は自分の人生の中でのみ、自分に価値を求めようとするからおかしいことになるである。ノーベル文学賞はもう宇佐見りんでいいだろ、と思う一方、宇佐見氏が真の価値が見出されるのが1000年後かもしれないし、永久にないかもしれないとも思うのである。これはまじめに思うのであるが、――文学も哲学もいつ価値が判明するのかわからんわけだが、平気で1000年以上かかったりするわけだ。没落しつつある西洋文明の記念にプラトン大先生にでも受賞させておくべきだ。

虎の尾をふんだがかみついてこなかった世界

2023-10-04 23:10:51 | 思想


履、虎尾不咥人。亨

虎の尾をふんだが、かみついてこない、いいね。こんなのも、朝の目覚めが良くないので今日は一日調子悪い、みたいな現代人よりもよほどましな世界である。詩経に、果物をなげてくれたので佩玉をなげ返したよ結婚しよう、みたいな歌があるけど、ほんといまどきのライン上のくだらないコミュニケーションよりもかなりしゃれている。

こういう世界でこそ、言葉に込められた思いみたいなものが果実の残り香のように辛うじてありうるのである。いまでもやたら、人物のこころを説明させる授業はあるが、たいがいその残り香を芳香剤で打ち消す体のものである。

今年は麦茶に目覚めた夏であった。

メーリさんのひつじ、ひつじ――事件がまだ炎上中である。今日は、記者会見を仕切っていた運営会社が手を上げてても無視するNGリストを持っていたとかなんとかで紛糾していた。NGリストって自分がやってはいけないことならわかるが、無視するリストをNGってなにかおかしいよな。まあ、あれだよな――政府が憲法を無視するときもそんなかんじの認識のねじれが起きてると思われる。

今も昔も、教育の現場を破壊するのはいろんな意味で勇気のない教員であり、これをごまかす理屈ばかりが発明されている。それを笑いながら卑怯な人間が世の中に出て行く。これはとても因果の筋が通り過ぎている、自明の理すぎる現実である。ジャニーズの会見騒動もそのレベルの話である。こんなことをやっていたら、逆に、虎の尾をふんでもかみついてこないイイネ、――が世界を占う輝きを失って、ただ陰謀の結果になってしまうではないか。陰謀論が流行るのも、そもそもつまらない因果の効果に頼って我々が仕事をするようになったからだ。その因果律への信仰はあまりにくだらない。ボスの犯罪的地獄の王国にも、逆に男性同士の芳香を放つ世界が出現してしまった世界を讃える人さえいなくなるであろう。この先にまっているのは、芸能の死滅である。確かにもう死んでたと言えば、戦時中あたりから死んでいるといえばいえるのであろう。今度授業で、ジャニー帝国における、敗戦と戦後思想の欲望の関係について推測したことを喋るつもりであるが、そもそもその帝国は死からの復活であっても敗戦の刻印を押された惜しいものである他はないのだ。ジャニー氏と我々は欲望を共有していたのか、いたに決まってる、と細に喋ってもあまりに受けが悪かったが、それはそうだ。