六五。不富以其鄰。利用侵伐。无不利。
富を分けてくれないけちな國は成敗するがよし。よいことあるよ。。。
もしかしたら、近代中国や近代日本が成敗される方向であったのは、けちだったからであろうか。まったく間違ってはいないと思うのである。アメリカなんか、自分で自分の生産物を消費しているだけなのに、戦はいつもきつく、意識としては、世界中、サービスしてくれないけちな國ばっかりだ、と思っている節がある。我々は、ひどいことをされた場合に、相手を見ないように防衛本能が働く一方で、サービスのやり方を間違われるとプッツンする傾向がある。
安倍元首相がそうであった。彼の最後のサービスはマスクであったが、とつぜん(ではないが)、人々はプッツンした。
先日、映画「国葬の日」をみた。この映画は安倍元首相の〈国葬〉の日に全国でインタビューを行ったものである。かくして、それは「レボリューション+1」の監督のインタビューをふくめて、基本的に所謂「街の声」の集積となった。普段ニュースでみる「街の声」にほとんど価値がないようにみえるのと同様の感覚を抱かせながら、そこにある決定的な差異を見出していこうという戦略である。国民の分断、そんなものはない。あるのは膨大な無知と個々の意見の相違であり、決定的な差異というものが中にはある。――それはわかる。しかし、今の世界でこのような「街の声」がそもそもどのようなものかという考察はこういう映画では困難である。だから、この作品では、国葬に関わった少数の人ではなく、無関係にみえる国民の狂騒がいつの日か戦争を導くような演出が最後なされていた。
私自身は、こういう演出にあまり意味はないと思うほうだ。かえって多くの作者たちが日常の中に我々の狂気をさぐっていっている努力を助けたいと思う。鳥飼茜氏の『サターンリターン』を途中まで読んだが、これもそうだと思う。押見修造氏の「血の轍」が完結したんで読了したが、これもそうである。トラウマに乗っ取られると、世界はゆっくりとした走馬燈のようになってしまうような世界があらわれる。「レボリューション+1」は見ていないが、我々が浮世離れしたことを行う具体性とは、押見が描くようなもののなかにもある。
より卑近なところでは、アンケートみたいな密告のしくみをやめれば少しはましになるだろう。テレビの何が嫌かって、愚にもつかない視聴者の声を画面下部に流すのもそうだけど、ワイプってやつね、あれはじつに最悪である。せめて人間ではなく蛙とかインコにしてほしい。