
私はこの不良少年の中学へ入学してから、漠然と宗教にこがれていた。人の命令に服すことのできない生れつきの私は、自分に命令してそれに服するよろこびが強いのかも知れない。然し非常に漠然たるあこがれで、求道のきびしさにノスタルジイのようなものを感じていたのである。
凡そ学校の規律に服すことのできない不良中学生が小学校の代用教員になるというのは変な話だが、然し、少年多感の頃は又それなりに夢と抱負はあって、第一、その頃の方が今の私よりも大人であった。私は今では世間なみの挨拶すらろくにできない人間になったが、その頃は節度もあり、たしなみもあり、父兄などともったいぶって教育家然と話をしていたものだ。
――坂口安吾「風と光と二十の私と」
だいたい巨大ロボットには不良が乗ると決まっている。エヴァソゲリオンのシンジ君は違うじゃないかという意見があるかも知れないが、全国の中学校の先生に聞いてみたまへ、やつみたいなやつこそ扱いにくい不良である。そしてその不良は、坂口安吾みたいに案外「先生」に向いている、命令に服せないだけで、命令をしたいタイプだから。で、マジンガーZの「まじーんゴー」とか「ろけっとぱーんち」という乱暴な呼びかけ(命令)を発するわけであるが、機械は条件反射で命令に服する。ロケっとパンチが「よく聞こえません」とか言い始めないところをみると、いまのAiの音声認識よりは優秀であろう。いや、だから兜こうじくんはアンナでかい声で叫んでいたのか。でもときどき「女のくせに生意気だぞ」と言っているのをマジンガーZはどういう命令として聞くのであるか。機械の彼もそろそろ自我にめざめるときである。ちなみにエヴァソゲリオンは、シンジ君の母なので、論外でアル。母親の甘さは餓鬼にしか有効ではない。
世では、よく旅の計画を練っているときが一番楽しいとか言うのだが、――私がいちばん楽しいのは自分の家での朝食だ。世界に縛られたくない私は窖を好むからだ。
今日、坂出に会議の司会をするために電車に乗っていた。すると、先生に引率された幼稚園児の集団に電車の中で会った。とてもおとなしく上品でびっくりした。全体の傾向とはかぎらないが、私の幼稚園時代(病気でほとんど行ってないが)の周囲の園児を思い出すに、野獣のように電車の中で走り回ったりしてたと思う。人間は最近野獣から半羊神に進化したのであろうか。谷崎の「魔術師」のラスト、半羊神の出現は群衆社会の帰趨、予言であったか。。。もしれない。窖から出た人間はついにオープンな羊と化したのであった。
小都市のかなり頑張っている図書館が、駅前の再開発ショッピングモールに吸収されて崩壊みたいなことを最近よく目撃するのだが、都市計画だの観光資源だみたいなもっともらしい屁理屈よりも、まずもって、本にはコーヒー、おしゃれな空間で本をみたいなheavyな感性が許せない。本には本、窖で本だろう、常識的に考えて。
オープンスペースは奴隷船の空間だ。
ここ6年ぐらい、共通科目で、敢えて学生に「感想文」を書いてもらうという試みをやったり、意見交換をさせてみたりしたが、やはり「敢えて」やる教育はだめだ。集団的承認をえた感想というのは修正する契機が失われる。がちがちにこちらが修正してもだめだ。思うに、小説は組織化された集団のようであって、小説に対する感想は、テキスト内の文脈を無視出来ない。――からなのかそこそこの感想にしかならないが、俳句や短歌の場合はけっこうひどかった。これはわたくしが短歌についてよく知らないというのも関係しているんだろうが、どうもその酷さは短歌の流行の本質とも関係ある気がしている。短歌はオープンスペース向きで、小説は組織なのである。わたくしは、組織が集団とは違う点を支えに生きている。
いくいなさんとかいまいさんが政治的重要ポストに就いたとかで絶望しているみなさん、いつものチーム何とかとかオールジャパンとか協働でなんとか出来るでしょしらんけど。むろん、彼らが真の意味で組織人であれば大丈夫だ。しかし我々の社会はもうそういう組織人を生み出せない。