大仏といえば、奈良・東大寺の御本尊 国宝盧舎那仏坐像
もう一つの国宝の大仏が鎌倉にある
国宝 阿弥陀如来坐像 またの名を鎌倉大仏
鎌倉は源頼朝が初めての本格的武家政権を開いた街 即ち武士の街
その陰には家族の悲劇がありました
鎌倉幕府の初代将軍として武士の頂点に立った源頼朝
その地位を息子に継がせるため、頼朝は強力なバックアップ体制を築きます
しかしその親心が逆に息子を追い込み、破滅に導くことに
美しい街並みに秘められた源頼朝と家族の愛と哀しみの物語
鎌倉物語/サザンオールスターズ が流れてる
年間2000万近くの人が訪れる鎌倉
湘南の海、寺社仏閣、美しい花々、精進料理
全てを兼ね備えた王道の観光スポットです
■エピソード1 不思議な街へようこそ 武家の古都・鎌倉の秘密
三方は山 一方は海 豊かな自然に恵まれた街
そのシンボルとも言えるのは、上空からもはっきり見える高徳院の大仏
「鎌倉大仏」
高さおよそ11m 重さは120トン以上
右の頬にかすかに金箔が残っています
かつては全身が金色に輝いていたのでしょう
やや前かがみで参拝者に何かを語りかけるような姿が印象的です
この鎌倉大仏 実はとても不思議な存在なんです
これだけ巨大で有名なのにも関わらず
誰が、いつ、どのように作ったのか
たしかなことはほとんど分かっていないのです(驚
鎌倉幕府の歴史を記した「吾妻鏡」
浄光という僧侶が大仏堂建立のために寄付を集めたという記述があります
しかしこの浄光という人物は、全くといいほど分かりません
鎌倉時代の旅行記に大仏が登場するのですが、そこには大仏は木造だと書かれています
現在の鎌倉大仏は金属ですから、これとは別に木造の大仏があったということになります
その10年後、金属の大きな釈迦如来像を作り始めたという記録が登場します
ところが今の鎌倉大仏は阿弥陀如来
もしや鎌倉に三つの大仏が存在していた?
一説には、釈迦如来というのは間違いで
まず木の大仏が作られ後に、金属の阿弥陀如来
つまり今の大仏に作り変えられたと言われます
そして大仏造立には時の政権、鎌倉幕府が関わっていたと見られています
大仏が作られた頃、鎌倉幕府は成立からまだ数十年 誕生間もない武家政権
武力だけでなく文化や宗教の面でも朝廷や貴族を凌ぐ力を示したいと考えました
奈良や京都の壮大な寺院に匹敵する巨大で象徴的な存在、大仏を作る必要があった
鎌倉大仏は武士の都であることを示す壮大なモニュメントだったのです
12世紀終わりに成立した最初の本格的武家政権 「鎌倉幕府」
その後、江戸時代まで続く武士の世の礎となります
後の豊臣秀吉や徳川家康も鎌倉を訪れました
この海からまっすぐ伸びる参道の先に二人が参拝した場所があります
「鶴岡八幡宮」
(この間のフリマで鶴岡八幡宮の裏手にある山に登った話をしたこととリンクした
その時は台風の後で、まるで被害調査に行ったような感じだったけど
初代将軍・頼朝が建立
武士たちの守護神とも言える神社です
頼朝は「源平の戦い」の最中、鎌倉に入ると
自らの住まいの建設もそこそこに八幡宮の造営に取り掛かります
ここを武士の街にしたいという強い意志が感じられます
階段を上がると正面の楼門、奥には本殿
どちらも国指定の重要文化財です
細部に至るまで緻密な彫刻
扁額 八幡宮の八の字は鳩をかたどっている
鳩は八幡様のお使いとされていて
境内のあちこちに鳩がたくさん見られる
鎌倉を代表するこのお菓子も八幡宮の鳩をモチーフに作られました(サブレ?
美しい景観を創る山並みは、武士の都を守る城壁の役割を果たしていた
私が今歩いている山道は、かなり険しいですが「大仏切通」と呼ばれている
鎌倉時代には主要な通り道の一つだった
「切通」鎌倉を囲む山を人工的に切り開いて作った道
とても狭いところがあり、敵が大挙して攻めることは無理
両脇の切り立った崖も人工的に削り取って作られた
こんな高いところから狙われたら逃げようがない
道を見下ろす位置に平らな場所が設けられている
敵を迎え撃つため、鎌倉側の兵士が待機する場所だと考えられている
「八雲神社」
こちらはもう一つの人気スポット北鎌倉です
JR で鎌倉から1駅 観光客に人気のお寺が集まっている
(大人気すぎて、ゴールデンウィークなどの休日に行くと
とんでもなく電車が混雑して、乗るだけでもだいぶ待って諦めたことがある
日本で初めて本格的な禅寺の建長寺
「あじさい寺」で有名な明月院
北鎌倉にお寺が多いのは、武士の街ならではの理由がある
その鍵は北鎌倉の光照寺
門を入ってすぐ左手に小さなお社がある
「おしゃぶきさま」と呼ばれています
咳をするという意味の「しわぶく」からきていて
咳を治す神様として信仰を集めてきた
でもどうしてこのお寺に咳の神様がいるのでしょうか?
鎌倉時代に描かれた絵巻物一遍上人絵伝
一遍上人という高僧が説法のため鎌倉を訪れますが、関所で武士に殴られ追い返された
仕方なく商人が野宿した場所
そこに建てられたお寺がここなのです
咳の神様は、実は「関」の神様ではないかと言われています
この辺りは鎌倉への入り口
今の北鎌倉駅付近に関所があった
多くの寺も関所があったためと言われている
東京大学教授 本郷さん:
お寺は鎌倉を守るため
実際、鎌倉幕府滅亡の時に、幕府側は北鎌倉付近で相当な抵抗をした
お寺は武士の都を防衛するための砦でもあった
池の秘密
鶴岡八幡宮境内にある池 源氏池
橋を渡ると島になっている
朱色に塗られた門を入り
後ろに回るともう二つ島があるのがわかる
源氏池には三つの島が存在する
この島の数に頼朝のメッセージがあるという
東西二つの池に分かれていて
大きい池が源氏池 小さいほうは平家池
源氏池の三つの島 三は産まれるの「産」につながる
源氏は子々孫々繁栄するようにという願いが込められた
一方、平家池の島は四つ 「死」に通じる
平家の滅亡を祈願する呪いがかけられている
鶴岡八幡宮が建立されたのは、まさしく「源平の戦い」の最中
その造園には平家打倒の強い思いが込められていた
鎌倉の武士の都としての歴史は、およそ800年前
頼朝とその家族が移り住んだことに始まります
その始まりはなんと駆け落ち
■エピソード2 父上なんか大嫌い 源頼朝の娘・大姫の哀しき初恋
平安時代の終わり、現在の静岡県・伊豆の国市で一人の女の子が産まれた
名前は大姫 長女という意味で本当の名前はよく分かりません
母は地元・伊豆出身の武士の娘 北条政子 当時22歳くらい
父は源頼朝 当時32歳くらい
頼朝は時の権力者、平家に逆らった罪で伊豆に流された罪人だった
大姫が生まれる20年ほど前の京都 平治元年
当時13歳の源頼朝は、父や兄達と共に平家の平清盛との戦いに挑んだが
この戦いは源氏一族の敗北に終わった
父や兄達は殺され、頼朝は都から遠く離れた伊豆に流刑となった
罪人として不遇の日々を送る頼朝は
地元の武士の娘・北条政子と出会い
二人は大恋愛の末、周囲の反対を押し切って駆け落ちして結婚
大姫が生まれる
家族を失った頼朝のかけがえのない新しい家族だった
治承4年
大姫が産まれて間もなく時代は大きく動く
平家に不満を持つ全国の武士が各地で平家打倒に立ち上がった
関東の武士も立ち上がり
その時にリーダーに選ばれたのは、平家と並ぶ源氏の生き残りである頼朝だった
わずか数十人で挙兵し、関東を転戦しながら
2ヶ月足らずで数万の武士を味方につけて鎌倉に入る
周囲を山と海で囲まれ、防御に優れた鎌倉を本拠地と定め、新たな国づくりへと着手
新しい家族が加わる
娘の婚約者・木曽義高
義高の父は、頼朝と対立する信濃の武将
実際は鎌倉に差し出された人質だった
しかし幼い大姫には分からず、未来の夫と信じて一途に慕うようになった
義高が鎌倉に来て間もなく、義高の父は平家打倒のため大軍を率いて出陣
各地で勝利を重ね、ついに京都まで攻め上ったが、京都で朝廷と対立
鎌倉の頼朝に援軍を求めた
これは西日本に勢力を伸ばす千載一遇のチャンス
頼朝は京都に軍勢を派遣
頼朝の弟・源義経の活躍もあり、鎌倉側の圧勝 義高の父を討ち取る
難しい立場になった義高
人質としての価値がなくなった以上、いつ殺されても不思議ではない
頼朝の心も揺れていた
義高を生かしておけば、やがて自分に刃を向ける
しかし殺せば大姫が悲しむ
結局2ヶ月以上何の処分も下さなかった
頼朝に急な知らせが届く
義高が密かに鎌倉を脱出 信濃に向かったと言う
この逃亡劇には大姫が関わった
女の服で変装させて脱出させた
義高が信濃に戻れば、地元の武士たちが彼の元に結集し
敵討ちを大義名分に鎌倉に攻め込むかもしれない
頼朝は義高を討ち取るように命じる
義高は追手にとらわれ、まだ若い命を奪われた
頼朝は勢力を広げることに成功
義高の死を知った大姫は飲食を絶ち
ショックのあまり体調を崩す
その後何年経っても良くならず
そんな大姫の幸せを考え、京都の身分の高い貴族との縁談を勧めるが
大姫:もしそのようなことをされるのなら、川に身を投げて死にます!
頼朝は究極の結婚相手を探す 時の帝 後鳥羽天皇
武士の娘が天皇に嫁いだ例はほとんどなかったが、頼朝は強引に推し進める
大姫死去 まだ二十歳前後の若さだった
頼朝は武士のリーダーとしての責任と引き換えに、大事な愛娘の未来を奪ってしまった
鎌倉の北のはずれにある常楽寺
境内の裏山に大姫の墓と伝わる小さな塚があります(ずいぶん小さいな
そこからほんの数メートル登った所にあるもう一つの塚は
大姫が生涯の愛を捧げた木曽義高の墓とされています
頼朝と政子の間には四人の子どもがいた
後の鎌倉将軍の頼家、次女の三幡、後の3代将軍・実朝
実は頼朝はかなりの浮気者
頼朝には政子以外の女性との間にも息子が二人いたと言われています
怒った政子は、浮気相手の住まいを壊させたと言う壮絶なエピソードまであります
隠し子の噂もあり、そのうち一人が鹿児島の大名
島津家の先祖になったと言う伝承も残されています
今鎌倉にある頼朝のお墓は、江戸時代に薩摩藩主・島津重豪が建てた
鎌倉をなぜ子孫に引き継げなかったのか?
およそ150年間続いた鎌倉幕府
しかし歴代将軍9人のうち、源氏の将軍は最初の3代
頼朝とその二人の息子で途絶えてしまいます
しかも息子たちは共に若くして暗殺されるという悲劇的な最期を遂げました
そこには頼朝の誤算が招いた家族の悲劇があった
■エピソード3 息子のためにと思ったのに… 頼朝三つの誤算
後の2代将軍・源頼家が誕生 頼朝36歳の時 待望の跡継ぎ
この頃鎌倉は、新たな武家の都として建設が進む最中
そうしたタイミングでのお世継ぎ誕生に鎌倉全体が大いに沸きたった
お祝いに届けられた馬は200頭あまり
頼家は周囲の期待に応えるように順調に成長
幼い頃から武芸に才能を発揮します
12歳の時、多くの武士が参加した富士山の裾野の狩りで見事に鹿を仕留め
頼朝はこれに大喜び
大急ぎで鎌倉の政子に使者を送ったところ
はしゃぎすぎだと叱られたというエピソードも残されています
頼家がスムーズに跡を継げるよう頼朝は様々な手を打ったが
その親心は後の悲劇の原因となった
第一の誤算
頼朝は将軍の座を脅かす源氏一族の有力者を排除した
例えば平家との戦いで活躍した二人の弟を追放し死に追い込んだ
この排除は後の頼家政権にとってマイナスだったと専門家は指摘
神奈川県立 金沢文庫 主任学芸員 永井さん:
頼朝は周りの源氏を潰しすぎた
本来であれば源氏の中の誰かが重鎮として残って
頼家のそばで睨みを利かせていれば、頼家に対抗する勢力は動けない
第二の誤算
頼朝は幕府の有力武士の中から頼家の側近を選んだ
中でも頼朝が特別な信頼を寄せていたのが比企一族だった
比企は頼朝の乳母(めのと 養育係)を出した一族だった
頼朝が伊豆に流されていた時期も仕送りをして生活を支えてくれた
比企一族の娘が頼家の妻になり、跡継ぎとなる男の子も産まれた
だが、頼朝・頼家のすぐそばに比企一族の存在を快く思わぬ者がいた
それは妻・政子と、その実家・北条一族
北条一族は将軍・頼朝の実家として幕府内での地位を築いてきたが
頼家が将軍になれば、その地位を比企一族に奪われるため
北条一族はい頼家に敵対心を抱くようになる
第三の誤算
まだ若く、苦労知らずの頼家
将軍の座を継がせるまでにしっかり帝王学を仕込まなくてはと思っていた頼朝
だが、頼家がまだ17歳の冬、頼朝は落馬し、翌年享年53歳であっけなく死去
鎌倉の未来は、まだ18歳の頼家に託さなければならなくなった
わずか数ヶ月後 武士たちが反旗を翻し
領地争いなどを裁く権限を頼家から奪う
これは武士のリーダーの重要な権限で、頼家には大きな痛手でした
この動きを主導したのは北条一族だったと言われている
経験不足の頼家は抵抗する術がなかった
頼朝の死から4年後
比企一族の館に突如、北条一族らの軍勢が襲いかかる
比企一族滅亡
頼家の妻と幼い息子も殺される
修善寺温泉
支えを失った頼家は将軍の座を追われ、伊豆・修善寺に幽閉され
翌年の夏、入浴中に襲われ、享年23歳で暗殺された
次の将軍・源実朝も若くして暗殺され、源氏の将軍はわずか3代で途絶えた
近代に入り鎌倉は何度かに渡り大きな危機に見舞われた
大正12年の関東大震災で鶴岡八幡宮の社殿が倒壊するなど大きな被害を受けた
戦後の高度成長期には宅地開発の波が鎌倉に押し寄せた
危機から町を救ったのは、この街を愛し、守ろうとする市民たちの努力でした
こうした市民の活躍は、古都の歴史的風土を守るための法律
「古都保存法」の制定につながります
鎌倉だけでなく京都、奈良など、全国の歴史的な街並みや景観を守る原動力となった
その価値は今新たに世界に向けて発信されようとしている
日本政府は、武家の古都 鎌倉を世界遺産候補として正式に推薦した
源頼朝以来、鎌倉の武士たちが作り上げた独自の文化 その価値が高く評価された
9月には登録に向けた審査のためイコモス(国際記念物遺跡会議)の現地調査員が鎌倉を訪れた
これに合わせて市民のボランティアによる美化活動も行われた
鎌倉市も頼朝ゆかりの史跡の整備を進めています
鎌倉市 世界遺産登録推進担当 吉田さん:
こうした史跡を自分たちと関係ない昔のことと思わずに
文化を大事にして、そこから平和な世の中を大事にする気持ちを皆さんに持ってもらいたい
「研修道場」
頼朝が武士の守護神として築いた鶴岡八幡宮の境内に、武道の道場があります
集うのは鎌倉の未来を担う子ども達です
剣道師範 小林さん:剣道の元には武士道の精神がある
男の子:目標は日本一です
女の子:強くなりたい
Q:鎌倉の街は好きですか?
女の子:大好きです
もう一つの国宝の大仏が鎌倉にある
国宝 阿弥陀如来坐像 またの名を鎌倉大仏
鎌倉は源頼朝が初めての本格的武家政権を開いた街 即ち武士の街
その陰には家族の悲劇がありました
鎌倉幕府の初代将軍として武士の頂点に立った源頼朝
その地位を息子に継がせるため、頼朝は強力なバックアップ体制を築きます
しかしその親心が逆に息子を追い込み、破滅に導くことに
美しい街並みに秘められた源頼朝と家族の愛と哀しみの物語
鎌倉物語/サザンオールスターズ が流れてる
年間2000万近くの人が訪れる鎌倉
湘南の海、寺社仏閣、美しい花々、精進料理
全てを兼ね備えた王道の観光スポットです
■エピソード1 不思議な街へようこそ 武家の古都・鎌倉の秘密
三方は山 一方は海 豊かな自然に恵まれた街
そのシンボルとも言えるのは、上空からもはっきり見える高徳院の大仏
「鎌倉大仏」
高さおよそ11m 重さは120トン以上
右の頬にかすかに金箔が残っています
かつては全身が金色に輝いていたのでしょう
やや前かがみで参拝者に何かを語りかけるような姿が印象的です
この鎌倉大仏 実はとても不思議な存在なんです
これだけ巨大で有名なのにも関わらず
誰が、いつ、どのように作ったのか
たしかなことはほとんど分かっていないのです(驚
鎌倉幕府の歴史を記した「吾妻鏡」
浄光という僧侶が大仏堂建立のために寄付を集めたという記述があります
しかしこの浄光という人物は、全くといいほど分かりません
鎌倉時代の旅行記に大仏が登場するのですが、そこには大仏は木造だと書かれています
現在の鎌倉大仏は金属ですから、これとは別に木造の大仏があったということになります
その10年後、金属の大きな釈迦如来像を作り始めたという記録が登場します
ところが今の鎌倉大仏は阿弥陀如来
もしや鎌倉に三つの大仏が存在していた?
一説には、釈迦如来というのは間違いで
まず木の大仏が作られ後に、金属の阿弥陀如来
つまり今の大仏に作り変えられたと言われます
そして大仏造立には時の政権、鎌倉幕府が関わっていたと見られています
大仏が作られた頃、鎌倉幕府は成立からまだ数十年 誕生間もない武家政権
武力だけでなく文化や宗教の面でも朝廷や貴族を凌ぐ力を示したいと考えました
奈良や京都の壮大な寺院に匹敵する巨大で象徴的な存在、大仏を作る必要があった
鎌倉大仏は武士の都であることを示す壮大なモニュメントだったのです
12世紀終わりに成立した最初の本格的武家政権 「鎌倉幕府」
その後、江戸時代まで続く武士の世の礎となります
後の豊臣秀吉や徳川家康も鎌倉を訪れました
この海からまっすぐ伸びる参道の先に二人が参拝した場所があります
「鶴岡八幡宮」
(この間のフリマで鶴岡八幡宮の裏手にある山に登った話をしたこととリンクした
その時は台風の後で、まるで被害調査に行ったような感じだったけど
初代将軍・頼朝が建立
武士たちの守護神とも言える神社です
頼朝は「源平の戦い」の最中、鎌倉に入ると
自らの住まいの建設もそこそこに八幡宮の造営に取り掛かります
ここを武士の街にしたいという強い意志が感じられます
階段を上がると正面の楼門、奥には本殿
どちらも国指定の重要文化財です
細部に至るまで緻密な彫刻
扁額 八幡宮の八の字は鳩をかたどっている
鳩は八幡様のお使いとされていて
境内のあちこちに鳩がたくさん見られる
鎌倉を代表するこのお菓子も八幡宮の鳩をモチーフに作られました(サブレ?
美しい景観を創る山並みは、武士の都を守る城壁の役割を果たしていた
私が今歩いている山道は、かなり険しいですが「大仏切通」と呼ばれている
鎌倉時代には主要な通り道の一つだった
「切通」鎌倉を囲む山を人工的に切り開いて作った道
とても狭いところがあり、敵が大挙して攻めることは無理
両脇の切り立った崖も人工的に削り取って作られた
こんな高いところから狙われたら逃げようがない
道を見下ろす位置に平らな場所が設けられている
敵を迎え撃つため、鎌倉側の兵士が待機する場所だと考えられている
「八雲神社」
こちらはもう一つの人気スポット北鎌倉です
JR で鎌倉から1駅 観光客に人気のお寺が集まっている
(大人気すぎて、ゴールデンウィークなどの休日に行くと
とんでもなく電車が混雑して、乗るだけでもだいぶ待って諦めたことがある
日本で初めて本格的な禅寺の建長寺
「あじさい寺」で有名な明月院
北鎌倉にお寺が多いのは、武士の街ならではの理由がある
その鍵は北鎌倉の光照寺
門を入ってすぐ左手に小さなお社がある
「おしゃぶきさま」と呼ばれています
咳をするという意味の「しわぶく」からきていて
咳を治す神様として信仰を集めてきた
でもどうしてこのお寺に咳の神様がいるのでしょうか?
鎌倉時代に描かれた絵巻物一遍上人絵伝
一遍上人という高僧が説法のため鎌倉を訪れますが、関所で武士に殴られ追い返された
仕方なく商人が野宿した場所
そこに建てられたお寺がここなのです
咳の神様は、実は「関」の神様ではないかと言われています
この辺りは鎌倉への入り口
今の北鎌倉駅付近に関所があった
多くの寺も関所があったためと言われている
東京大学教授 本郷さん:
お寺は鎌倉を守るため
実際、鎌倉幕府滅亡の時に、幕府側は北鎌倉付近で相当な抵抗をした
お寺は武士の都を防衛するための砦でもあった
池の秘密
鶴岡八幡宮境内にある池 源氏池
橋を渡ると島になっている
朱色に塗られた門を入り
後ろに回るともう二つ島があるのがわかる
源氏池には三つの島が存在する
この島の数に頼朝のメッセージがあるという
東西二つの池に分かれていて
大きい池が源氏池 小さいほうは平家池
源氏池の三つの島 三は産まれるの「産」につながる
源氏は子々孫々繁栄するようにという願いが込められた
一方、平家池の島は四つ 「死」に通じる
平家の滅亡を祈願する呪いがかけられている
鶴岡八幡宮が建立されたのは、まさしく「源平の戦い」の最中
その造園には平家打倒の強い思いが込められていた
鎌倉の武士の都としての歴史は、およそ800年前
頼朝とその家族が移り住んだことに始まります
その始まりはなんと駆け落ち
■エピソード2 父上なんか大嫌い 源頼朝の娘・大姫の哀しき初恋
平安時代の終わり、現在の静岡県・伊豆の国市で一人の女の子が産まれた
名前は大姫 長女という意味で本当の名前はよく分かりません
母は地元・伊豆出身の武士の娘 北条政子 当時22歳くらい
父は源頼朝 当時32歳くらい
頼朝は時の権力者、平家に逆らった罪で伊豆に流された罪人だった
大姫が生まれる20年ほど前の京都 平治元年
当時13歳の源頼朝は、父や兄達と共に平家の平清盛との戦いに挑んだが
この戦いは源氏一族の敗北に終わった
父や兄達は殺され、頼朝は都から遠く離れた伊豆に流刑となった
罪人として不遇の日々を送る頼朝は
地元の武士の娘・北条政子と出会い
二人は大恋愛の末、周囲の反対を押し切って駆け落ちして結婚
大姫が生まれる
家族を失った頼朝のかけがえのない新しい家族だった
治承4年
大姫が産まれて間もなく時代は大きく動く
平家に不満を持つ全国の武士が各地で平家打倒に立ち上がった
関東の武士も立ち上がり
その時にリーダーに選ばれたのは、平家と並ぶ源氏の生き残りである頼朝だった
わずか数十人で挙兵し、関東を転戦しながら
2ヶ月足らずで数万の武士を味方につけて鎌倉に入る
周囲を山と海で囲まれ、防御に優れた鎌倉を本拠地と定め、新たな国づくりへと着手
新しい家族が加わる
娘の婚約者・木曽義高
義高の父は、頼朝と対立する信濃の武将
実際は鎌倉に差し出された人質だった
しかし幼い大姫には分からず、未来の夫と信じて一途に慕うようになった
義高が鎌倉に来て間もなく、義高の父は平家打倒のため大軍を率いて出陣
各地で勝利を重ね、ついに京都まで攻め上ったが、京都で朝廷と対立
鎌倉の頼朝に援軍を求めた
これは西日本に勢力を伸ばす千載一遇のチャンス
頼朝は京都に軍勢を派遣
頼朝の弟・源義経の活躍もあり、鎌倉側の圧勝 義高の父を討ち取る
難しい立場になった義高
人質としての価値がなくなった以上、いつ殺されても不思議ではない
頼朝の心も揺れていた
義高を生かしておけば、やがて自分に刃を向ける
しかし殺せば大姫が悲しむ
結局2ヶ月以上何の処分も下さなかった
頼朝に急な知らせが届く
義高が密かに鎌倉を脱出 信濃に向かったと言う
この逃亡劇には大姫が関わった
女の服で変装させて脱出させた
義高が信濃に戻れば、地元の武士たちが彼の元に結集し
敵討ちを大義名分に鎌倉に攻め込むかもしれない
頼朝は義高を討ち取るように命じる
義高は追手にとらわれ、まだ若い命を奪われた
頼朝は勢力を広げることに成功
義高の死を知った大姫は飲食を絶ち
ショックのあまり体調を崩す
その後何年経っても良くならず
そんな大姫の幸せを考え、京都の身分の高い貴族との縁談を勧めるが
大姫:もしそのようなことをされるのなら、川に身を投げて死にます!
頼朝は究極の結婚相手を探す 時の帝 後鳥羽天皇
武士の娘が天皇に嫁いだ例はほとんどなかったが、頼朝は強引に推し進める
大姫死去 まだ二十歳前後の若さだった
頼朝は武士のリーダーとしての責任と引き換えに、大事な愛娘の未来を奪ってしまった
鎌倉の北のはずれにある常楽寺
境内の裏山に大姫の墓と伝わる小さな塚があります(ずいぶん小さいな
そこからほんの数メートル登った所にあるもう一つの塚は
大姫が生涯の愛を捧げた木曽義高の墓とされています
頼朝と政子の間には四人の子どもがいた
後の鎌倉将軍の頼家、次女の三幡、後の3代将軍・実朝
実は頼朝はかなりの浮気者
頼朝には政子以外の女性との間にも息子が二人いたと言われています
怒った政子は、浮気相手の住まいを壊させたと言う壮絶なエピソードまであります
隠し子の噂もあり、そのうち一人が鹿児島の大名
島津家の先祖になったと言う伝承も残されています
今鎌倉にある頼朝のお墓は、江戸時代に薩摩藩主・島津重豪が建てた
鎌倉をなぜ子孫に引き継げなかったのか?
およそ150年間続いた鎌倉幕府
しかし歴代将軍9人のうち、源氏の将軍は最初の3代
頼朝とその二人の息子で途絶えてしまいます
しかも息子たちは共に若くして暗殺されるという悲劇的な最期を遂げました
そこには頼朝の誤算が招いた家族の悲劇があった
■エピソード3 息子のためにと思ったのに… 頼朝三つの誤算
後の2代将軍・源頼家が誕生 頼朝36歳の時 待望の跡継ぎ
この頃鎌倉は、新たな武家の都として建設が進む最中
そうしたタイミングでのお世継ぎ誕生に鎌倉全体が大いに沸きたった
お祝いに届けられた馬は200頭あまり
頼家は周囲の期待に応えるように順調に成長
幼い頃から武芸に才能を発揮します
12歳の時、多くの武士が参加した富士山の裾野の狩りで見事に鹿を仕留め
頼朝はこれに大喜び
大急ぎで鎌倉の政子に使者を送ったところ
はしゃぎすぎだと叱られたというエピソードも残されています
頼家がスムーズに跡を継げるよう頼朝は様々な手を打ったが
その親心は後の悲劇の原因となった
第一の誤算
頼朝は将軍の座を脅かす源氏一族の有力者を排除した
例えば平家との戦いで活躍した二人の弟を追放し死に追い込んだ
この排除は後の頼家政権にとってマイナスだったと専門家は指摘
神奈川県立 金沢文庫 主任学芸員 永井さん:
頼朝は周りの源氏を潰しすぎた
本来であれば源氏の中の誰かが重鎮として残って
頼家のそばで睨みを利かせていれば、頼家に対抗する勢力は動けない
第二の誤算
頼朝は幕府の有力武士の中から頼家の側近を選んだ
中でも頼朝が特別な信頼を寄せていたのが比企一族だった
比企は頼朝の乳母(めのと 養育係)を出した一族だった
頼朝が伊豆に流されていた時期も仕送りをして生活を支えてくれた
比企一族の娘が頼家の妻になり、跡継ぎとなる男の子も産まれた
だが、頼朝・頼家のすぐそばに比企一族の存在を快く思わぬ者がいた
それは妻・政子と、その実家・北条一族
北条一族は将軍・頼朝の実家として幕府内での地位を築いてきたが
頼家が将軍になれば、その地位を比企一族に奪われるため
北条一族はい頼家に敵対心を抱くようになる
第三の誤算
まだ若く、苦労知らずの頼家
将軍の座を継がせるまでにしっかり帝王学を仕込まなくてはと思っていた頼朝
だが、頼家がまだ17歳の冬、頼朝は落馬し、翌年享年53歳であっけなく死去
鎌倉の未来は、まだ18歳の頼家に託さなければならなくなった
わずか数ヶ月後 武士たちが反旗を翻し
領地争いなどを裁く権限を頼家から奪う
これは武士のリーダーの重要な権限で、頼家には大きな痛手でした
この動きを主導したのは北条一族だったと言われている
経験不足の頼家は抵抗する術がなかった
頼朝の死から4年後
比企一族の館に突如、北条一族らの軍勢が襲いかかる
比企一族滅亡
頼家の妻と幼い息子も殺される
修善寺温泉
支えを失った頼家は将軍の座を追われ、伊豆・修善寺に幽閉され
翌年の夏、入浴中に襲われ、享年23歳で暗殺された
次の将軍・源実朝も若くして暗殺され、源氏の将軍はわずか3代で途絶えた
近代に入り鎌倉は何度かに渡り大きな危機に見舞われた
大正12年の関東大震災で鶴岡八幡宮の社殿が倒壊するなど大きな被害を受けた
戦後の高度成長期には宅地開発の波が鎌倉に押し寄せた
危機から町を救ったのは、この街を愛し、守ろうとする市民たちの努力でした
こうした市民の活躍は、古都の歴史的風土を守るための法律
「古都保存法」の制定につながります
鎌倉だけでなく京都、奈良など、全国の歴史的な街並みや景観を守る原動力となった
その価値は今新たに世界に向けて発信されようとしている
日本政府は、武家の古都 鎌倉を世界遺産候補として正式に推薦した
源頼朝以来、鎌倉の武士たちが作り上げた独自の文化 その価値が高く評価された
9月には登録に向けた審査のためイコモス(国際記念物遺跡会議)の現地調査員が鎌倉を訪れた
これに合わせて市民のボランティアによる美化活動も行われた
鎌倉市も頼朝ゆかりの史跡の整備を進めています
鎌倉市 世界遺産登録推進担当 吉田さん:
こうした史跡を自分たちと関係ない昔のことと思わずに
文化を大事にして、そこから平和な世の中を大事にする気持ちを皆さんに持ってもらいたい
「研修道場」
頼朝が武士の守護神として築いた鶴岡八幡宮の境内に、武道の道場があります
集うのは鎌倉の未来を担う子ども達です
剣道師範 小林さん:剣道の元には武士道の精神がある
男の子:目標は日本一です
女の子:強くなりたい
Q:鎌倉の街は好きですか?
女の子:大好きです