三四郎にとって父の存在感は希薄だった。だかといって父と離れて住んでいたわけではない。同じ家で暮らしてはいたのだが、ある時期までは父の記憶が全くない。無理をして思い出そうとすると、それは畳の上に正座して尺八を一生懸命に吹いている姿であった。いかにも苦しそうにいきんで音を出そうとしている。しかし結局あきらめてしまう。そうかと思えば、きれいに掃除をした畳の上に小さなごみでも落ちていると目ざとく見つけてすばやく腰をかがめて指でつまみあげる姿である。
それがある時期を境にして目の前に立ちはだかる力士のように存在になった。彼にとって脅威となった。三四郎にとって大きな脅威として立ちはだかったのである。それは小学校の終わりか中学生になった頃であった。彼とは一回り以上年の離れた異母兄がいたが、兄が口癖のようにいっていた「お父さんは一緒に暮らすのは難しい人」になったのである。
兄の言うところによると、それはやはり兄が十二,三歳のころかららしい。つまり息子が大人になりかけると父にはそれが非常に目障りになるらしいのである。普通は子供が成長するのは親の楽しみであるはずなのに、父には非常に目障りなことらしいのだ。
そういえば、そのころ急速に身長が伸びて背の低い父を追い越したのである。それが癪に障った可能性があるのかもしれない。父は自分の短躯にコンプレックスを持っていた。父は妻運がないというか最初の二人の妻とは死別してしまって三四郎の母は三人目なのだが、母は父より背が高い。三四郎はもちろん前の妻たちのことは知らないのだが、兄の言うところによると彼女たちも皆父より背が高かったらしい。兄はぐれていた学生時代に「三人の母」という小説を書いたそうだが、優生学的配慮があったらしいと言う。
優生学的配慮の結果である息子たちの身長がいざ自分を追い越すと理屈抜きでむかついた。何事にも負けず嫌いな父は我慢が出来なかったらしい。そういえば、思春期は知的にも飛躍的に成長する時期であるが、それがまた父には気に食わなかったようだ。自分の父親としての権威をないがしろにする許せないことと受け取った。
三四郎がショックを受けたのは、当時父に質問したのか意見を求めたのか、好奇心が旺盛になった時期で、質問が何だったかは忘れてしまったが、父に質問すると彼は必ず「そんなことを考えるのは邪道だ」とどやしつけるのである。子供でもそのころになれば幼児が際限もなく「何で何で?」と見境もなく親に聞く時期はとっくにすぎている。そんなにおかしな質問をしているわけでもないのに、見境もなくいきなり「邪道だ」と言われて唖然としないわけがない。
車夫馬丁の類の無知な人間ならともかく父は世間ではひとかどの学者として尊敬されていた。それだけ三四郎のショックは大きかった。とにかく、息子には「知らない」ということが言えない性質であったのだろう。父の口癖の一つに「オレの知らないドイツ語はない」というのがあった。
「負けず嫌いなんだな」と兄は笑った。「息子に追い抜かれるということには恐怖心を持っているんだ」と兄は言った。二十近く年が上の兄は父の若いころを知っている。また父の実家と父との間の長年の確執も見聞きしているらしく、「それがオヤジの若いころのトラウマになっているんだ」と三四郎に話した。
「どういうこと?」と聞くと
「おやじが田舎の実家や本家と大喧嘩をして東京に出てきた時に大変ないきさつがあってね。自分が父親になると今度は逆に息子たちに同じことをやられるんじゃないかと警戒しているんだ」
「下剋上か、うちは田舎では分家なのか」
「そうらしいな。オレも親戚から聞いた話だけどね。とにかく、とにかくオヤジがいまでは親戚の中では一番の出世頭というわけさ」
「それじゃオヤジのかたくなな態度は理屈じゃないわけだ。道理で充足理由率は通用しないんだな」
兄は怪訝な顔をした。「なんだ、ジュウソクリユウとかいうのは」
理工系の兄には通用しないわけだ。その当時哲学科にいてショウペンハウアーにまいっていた三四郎は思わずこなれない言葉を使ってしまったのである。もっとも後年これは間違っていたことが判明するのであるが。